衆生(死者とともに)の倫理

衆生の倫理 (ちくま新書)

衆生の倫理 (ちくま新書)

 ミクシィのマイミクさんが久しぶりに記事をアップしていたので、読んだら共振してしまい僕の記憶に刻みつけたいと、了承してもらい、こちらに全文コピペ引用しました。
 但し、映画を未見の人は前段の部分は読まない方がいいかもしれない。ネタばれのところがあるから、僕は未見ですが、読んでしまった。でも、それでも見たい!まあ、読まなかった方が良かったかもしれないがねぇ(笑)。
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 映画とかほとんど行かない生活になってるのだけど、つい先日、ある方に誘われて『接吻』という映画を観た。
 冒頭、主人公の男(豊川悦司)の「理不尽殺人」から話が始まる。男は犯行を警察に電話報告し、テレビ局にも通報する。もう一人の主人公は、会社で同僚の横暴を拒まず、黙して仕事をする孤独な女(小池栄子)で、男が逮捕時にテレビカメラに向けた表情を見た瞬間、生まれて初めて同じ者に会ったような衝撃に打たれる。
 仲村トオル(最近のタレントって年を取らないみたい)演じる国選弁護人が男の弁護を担当するが、男は公判の場でも弁護人の前でも決して口を開かない。弁護人は社会的な良識や善意を象徴・体現する存在として描かれている。女はあらゆる資料を集めて男の半生を洗い出し、公判に通うなかで、弁護人の媒介によって刑務所の男に差し入れや手紙を通して接近するが、安易に会おうとはしない。で、女は男の生存を望まない。すでに長い人生のなかで、社会のなかで孤立し、目に見えぬ暴力によって事実上「死んでいる」二人にとって、死刑ということは問題にならない。女と男はいわゆる獄中結婚をするのだが、ここで二人の間に結ばれるものは、一般的な意味での恋愛感情ではない一体性、同一性だ。
 しかし、赤の他人である一家三人を殺害するという行為を通しても何も感じることのできなかった男、しかし女との出会いによって長いこと死滅していた感情が突如として動き始める。悪夢にうなされるようになった男は涙を流し、これまで全く相手にしなかった弁護人に口を開き、心の動きを打ち明けてしまう。そして控訴の誘いを拒まず、さらには弁護人が女に諭したこと…“(実際に殺人をした)男とあなたは違う”という「社会」の側の言葉をそのまま女に放ってしまう。「自分と君は違う」と。ラスト、裏切られた女が、刑務所員の隙をついて男を刺し殺すことで映画は終わる。
 男が犯したような、可視化された直接的な暴力(犯罪)と、主人公ら「弱者」へ向けられる、日常的な目に見えない構造的な暴力はいかに連結し、あるいは隔たっているのか。そこには一線があるとしてもその意味は何なのか…。ちょうどそんなことを考えていたときに紹介されたのが↓の日記だ。
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 という前段の映画『接吻』の記事があって、とてもこの映画を見たくなったのですが、次のArisanのブログ記事 『パラダイス・ナウ』の引用につながるのです。

たとえば、日本統治下の朝鮮の日常は、「義兵闘争」のようなものさえなければ「平和」だっただろう。ガザやヨルダン川西岸地区の日常も、抵抗闘争がなければまったく「平和」だろう。チベット自治区の日常も、「暴動」さえ起きなければ、まったく「平和」なのだ。

こうした「平和」こそ、暴力そのものである。

たんに「平和を守れ」という主張は、支配や貧困や抑圧の永続を意味し、そこから帰結する自己の生との分離という人生のあり方を、虐げられた人々に甘受させることしか意味しないからだ。つまり、その帰結は、結局、戦争や暴力や自死でしかないということである。

問われ、告発されるべきなのは、「平和であるこの日常(世界)」が持っている暴力性の内実ということである。

 この文章を書いた方のことはあまり知らないけど、一読して、杉田俊介さんや大澤信亮さんなどの執筆と響き合いながら書かれたものだと感じた。もちろん、赤木さんの「希望は、戦争。」ともリンクしている。
 そして翌日のArisanのブログ記事 『死刑になりたい』に続く。

「死刑になりたい」といって殺人を犯す人は、自分の生が無価値であり、死んでしまいたいと思っているが、自ら命を絶つ行為を行う力も奪われている人、それほど徹底的に自分の生(つまりこの世界とのつながり)から分離されている人だろう。

 という部分は、自殺念慮のようなものとの絡みで考えさせられた。自殺も他殺もできず、不自由に不安定に分離されている「生き物」。
 きのうはすごく久しぶりにデモに参加した(自由と生存のメーデー)のだけど、必要上、写真撮影に追われたりしてせわしなかったものの、ある意味とても楽しかった。同時に、上に書いたようなことを思っていたからか、その場にいられることの特権性みたいのは意識してしまった。ともあれ、参加している人たちの心の内はわからないわけだけど、とてもいい笑顔が多く見られ、戸惑いつつも良い感じだった。朝までいたので、ぐったり疲れました。
P.S.栗田隆子さんが、「死者」とともにあるメーデーといみじくも表現していた。
http://d.hatena.ne.jp/FreetersFree/20080504
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 ↑の栗田隆子さんの記事を読んでいたら、石川忠司の『衆生の倫理』のbk1書評を書きたくなりました。おそらく石川さんが、大衆でもなく、市民でもなく、マルチチュード、庶民でもなく、わざわざ、『衆生』という言葉を使ったのは、死者が内包されていることを伝えたかったのかと思ったのでした。そんな背中押しで投稿書評したのです。『中途半端を嫌う「覇気」う〜ん』、よろしかったら、投票クリックして下さい。そしてこちらは大阪の社会・労働関係専門図書館の存続を訴える会の書名サイトです。