大澤真幸のトークイベント

 本日、ジュンク堂大阪本店で開かれた大澤真幸トークイベントに参加しました。『不可能性の時代』(岩波新書)と『逆接の民主主義』(角川新書)をテキストにした講演でした。レポを僕が書くとノイズが入って余計理解が遠のくかもしれないので差し控えます。ただ、二冊とも僕は読了したばかりなので、本の内容と大澤さんの言っていることと殆ど違いはないと確認は出来ました。興味のある方にはまず、両書を読むことをオススメします。そう言えば図書館のスペースを借りて大澤さんの『文明の内なる衝突』(NHKブックス)をテキストの読書会をやったことがありました。あれはいつのことか、ブログ内で検索。こんな時便利がいいですねぇ。「大澤真幸 文明の内なる衝突」で検索したら、こんなにヒットしたが、第一次情報の僕が最初にブログを始めたNews-Handlerのデータが消えている、脱退したんだよねぇ、脱退しないでそのままと言う手が良かったかもしれない。まあ、はてなブログに一部コピペしながら取り込んでエントリーアップしているみたいですが、整理されていないですねぇ。一応参照としてリンクしておきました。
 大澤さんと言えば「第三者の審級」ですが、今日のトークで、ひと言も「第三者の審級」という言葉を使わなかったですね、本では使っていますが、でもトークでこの概念を使わなくともグローバル化に対照する、乗り越える、超越系のまなざしとしての普遍性である「第三者の審級」のことが非常によくわかることができましたよ。
 今日のトークでは映画の話を冒頭しました。(1)「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」、(2)「ノーカントリー」、この二つの映画をネタに(1)については「理想の時代」に対応、(2)については「不可能性の時代」に対応っていう具合に話を進めていったわけ。
 面白いことに(1)は実録でしょう。(2)はいわばミステリーと言っていい(僕はこの映画をまだ見ていないので、あくまで大澤さんの話から)、でも、実録映画の方がクライマックスがあって出来事が収束するわけですよ。その意味で盛り上がる。一方(2)の方は劇映画なのにクライマックスがない、盛り上がらない、その追跡の不可能性は不発であるけれど、とても面白く、深いところでフィットする。本当は劇映画にクライマックスがあって、実録にはないはずでしょう。反転している。
 『ノーカントリー』の方は「絶対悪」の反転から立ち上がる「絶対善」っていうか、このブログでもbk1書評でも紹介した石川忠司の『衆生の倫理』における「中途半端を嫌う」心性と繋がるものがあるかもしれない。  
 (1)においては「共産主義化」という善のもとに個々人の個人的な欲望・怨念(悪)が隠蔽されている。(2)においては絶対悪として露呈している。だれかのタメの悪ではなく、悪としての悪。その徹底さが善を生む。(1)と(2)においては善と悪の関係性が反転しているのではないか。そんな見取りです。
 続きは明日に書きます。