メル友六人(六次の隔たり)

 武田徹オンライン日記で『子供のケータイ』の記事で、武田さんはかようにコメントしている。

確かに最近のケータイ使用の低年齢化には問題ないとは言わない。しかしこの対応では社会の教育放棄ではないのか。ケータイを、たとえ小学校に入ってすぐに所持したとしてもそこまでには生まれてから6年間の時間がある。その間に、リスクとの関わり方は十分に教えられると思う。必要な情報であればリスクをおかしてでもとる、危険だと思ったら近寄らない、そんな基本的な姿勢を教えていれば、ケータイの使用法にも十分に応用できていたはず。
 そうしたリスクとの関わりが旨くできていない事情は、針小棒大に報じられている感もあるけれど(SNSの時代に知り合いの知り合いであれば会ったことのないメル友はいくらでも出来る。メル友5人以上が12%というのは少ないくらいではないのか。そんな数字を強調し、それが全ていつかは援助交際に繋がりそうな出会い系サイトを通じた危ない知り合いであるかのようにイメージさせるのは悪質な情報操作だと思うが・・・・)

 一昨日のジュンク堂大阪本店で行った大澤真幸トークで、後半、前向きで希望に満ちた処方箋を提示したのですが、それが「ランダムな線」(『不可能性の時代p280』)というパラグラフなのです。大澤さんはここで、アクティブな民主主義を提示しているのですが、そのためには、「六次の隔たり」という標語で知られている、ネットワーク内の点と点の間の不思議な関係を説明した、ダンカン・ワッツとスティーヴン・ストロガッツの「小さな世界」(スモール・ワールド)の理論が実践されなければならないと書いているのですが、「小中学生に携帯電話持たせるな」という教育再生懇提言はあまりにも乱暴で世界は益々閉ざされてしまう。確かに負の面があるだろう。だけど正の面もある。そのことを教育の場で大人達は実践しなければならない。そういう大人の振る舞いが先行されて始めて子ども達に説得力を持って、ケータイのコミュニケーションツールとしての「希望と危険」の裏表を語ることが出来るのではないか。
 大澤さんはあとがきに書いている。

 私は本書の結末部に、どうしても未来の<救済>への展望を含めておきたかった。そのために、ずっとお会いしたかった二人の方に直接お会いし、お話を伺った。お二人とは、中村哲氏と河野義行氏である。中村哲氏は、「ペシャワール会」というNGOのリーダーで、アフガニスタンで医療活動を行うとともに、現地の人々と一緒になって井戸を掘ったり、用水路を作ったりして、人々の生活や農業を助けている。河野義行氏は、1994年の松本サリン事件のときに、最初犯人と間違えられ、取り調べを受けた。また奥様はサリンのせいで重篤な障害を負った。この意味で、河野氏サリン事件の最大の被害者だが、不思議なことに、事件後、オウム真理教徒と交渉をもってきた。お二人の刺激的な話の細部を、直接に本書の中に活かすことはできなかったのだが、本文を読んでいただければ分かるように、本書の結論は、実は、お二人との出会いに触発されて出てきたものである。

 果たして単に「小中学生に携帯電話持たせるな」でいいのか、教育すべき方向性がズレていないか。民主主義を超えた民主主義、「活動的な民主主義」を構築するためには、ネットというツールは「希望の装置」ではないのか、勿論、それは「絶望の装置」でもなりうるかもしれない。だけど、アクティブに進むしか「希望の灯」はないと思う。
 例えば、僕にしたところで、六次まで行かなくとも、福田さん、小泉さんにつながってしまうw。そうそう、鳩山邦夫が「友人の友人はアルカイダ」なんて言う発言もあったが、友人の友人の友人の…、ていう連鎖で繋がるのが通常でしょう。もしリアル場でしか繋がらない孤島なら、そちらの方が異常事態でしょう。