救済としての文化(1)

無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ

かって岡倉天心を嚆矢として、廃仏毀釈から文化財保護への運動、そして、今、大阪府で侃々諤々やっている図書館・博物館などの存続を守ったり、著作権法の改定問題にしても、新聞・出版物の再販維持制度の問題にしても、伝家の宝刀の一振りとして最後に「文化を守ろう!」と叫んでしまう。「文化」という言葉の前に人をひれ伏すものがある。文化とは一体なんだろう。明治憲法下では国体というカタチで、法に限りなくアクセスできたものであろうけれど、そもそも、文化は法以前に継続してあり続けたものでしょう。文明開化というときの文明が明治維新の欧化主義に置ける「文化」で、廃仏毀釈の原動力になったもので、その「文化」は文明とも言うべきものでしょう。そんな文明でもなくて、文化とは?
文化≒文化住宅≒文化鍋≒文化祭≒文化遺産≒文化映画≒文化勲章文化大革命≒文化国家≒文化財≒文化人≒文化生活
文化ってなんだろうねぇ。ただ、間違いないだろうと思うことは、文化鍋でも、文化住宅でもなくて、現憲法第25条で「国民の健康で文化的な最低限度の生活が保証される」として1946年に制定された「生活保護法」が実現しようと目指しているものもキーワードは文化なんだと言うことです。一昨日、エルおおさかで集まりに出かける前にジュンク堂天満橋店によって、とても気になっている杉田俊介さんの新刊『無能力批評』(大月書店)を買ったのですが、冒頭、「自由と生存のメーデー07」で、ある派遣社員の青年が朗読した詩が掲載されていた。

 ……何かを奪われている。
 わたしはそれを文化と呼ぼう。
 わたしたちは文化を奪われている。
 日々の労働、管理によって、
 何かを奪われている。
 街から公園から学校から労働から生活から。
 権力はこれを「安全」という名で管理しているのだろう。
 しかし、実際に管理され、骨抜きにされているのは、我々の労働であり、余暇であり、生活であり、学習であり、そして“生”そのものである。
 我々はパンのみにて生きるのではない。
 したがって我々は文化を取り戻さなければならない。
 取り戻した文化を、街や、公園や、学校や、生活や、余暇、
 そして我々の生に取り戻させなければならない。
 

この詩を読んだ時、多少、僕の文化理解とズレがあるなぁと思ったのですが、とても惹かれるものがある。と言うのは、僕は文化とは歴史よりは大きなもので、どうしても超越的な眼差しが入り込んで、「死者」、「他者」と供にあるものだと思う。例えば、毎日仏壇に手を合わせているおふくろを見ると、この行為は文化だと思うわけです。
そんなことを思っているとkarposさんが、エントリーアップした優しい関係を読んでいたら、つくづく無神論であれ、否定形のカタチであれ、宗教的な眼差しがないと、文化も『友だち地獄』(ちくま新書)の脱却もあり得ないと思ったのでした。そこで、僕は又、映画『ノーカントリー』大澤真幸トークのことに言及しながらコメントしたが、karposさんの問い
(1)善良なわたしが「殺し屋(反転)神=パワーに出会う」「なすすべない(叫び)」という感じですか?
(2)どちらかと言えば、殺し屋のわたしが「神=愛による受容に出会う」「なすすべない(叫び)」という感じなんですが・・・
と言われたとき、僕のは多分、(1)の叫びだと思うのです。大澤さんもそうではないかと想像する。
でも、karposさんの叫びは(2)で、杉田俊介著『無能力批評』の叫びもそうではないかと思う。上記の詩の叫びにいう文化もそんな「殺し屋の私」が叫ぶ「救済としての文化」だと思う。
この項続く