1970年、大宅壮一も亡くなった

エル・ライブラリー関連資料
 こんな専門図書館ブログ『SENTOKYO』があるんですねぇ。あちらこちらにリンクしている。読むのは大変だけど、索引として図書館関連記事を調べるのに便利がいいですねぇ。特に、雑誌・新聞記事はアンテナを張るのが大変で、素人で、ものぐさの僕でも、これは使えます。
 本棚に紀田順一郎の『図書館が面白い』(ちくま文庫)があったので、パラパラめくっているのですが、最初に取り上げられているのが「大宅壮一文庫」。1971年スタートなんだよね。三島由紀夫が自栽した翌年。
 その後、衆議院の文教委員会で議員から「大宅文庫は国庫補助はできないか?」という質問があって、検討したいという政府答弁があったということです。しかし、結局、国からの補助はなく、自力救済の道を歩んだわけ。
 1992年の利用者数は62081人ですね。一日の入館者数は二百人強ですか。今はどうだろうか、→公益財団法人大宅壮一文庫
 三十年以上前の話なので、お金の価値が違うけれど、

図書館が面白い (ちくま文庫)

図書館が面白い (ちくま文庫)

 ライブラリー学の視点から見ると、大宅壮一文庫の本質は「メモ」にある。いかに貴重なかつ膨大な蔵書でも、それを検索するための「心覚え」がなくては宝の持ち腐れにひとしい。
 とはいえ、その検索の手段としてのメモやカードということはだれでも考えるのである。ただ、それに徹するだけの甲斐性や熱意をもたない。持続するだけの条件も整わない。全盛時代の彼は常時四、五人のアルバイトを雇い、カードづくりを日常化していたというが、これは余人の追随しえないところである。人手を借りるということも、単に忙しいからというだけでなく、「知的労働n集団化」という彼独自の発想に関係がある。
 カードづくりは昭和三十年(1955)ごろからはじまった。これは同時期の評論活動のためもあるが、ライフワークである大正史の準備として、資料収集に一段と拍車がかかったせいでもあった。約十年後、この企画は畢生のノンフィクション『炎は流れる』(1964)として結実しかけるが、残念ながら体力尽きて未完に終わり、蔵書整理もまた未完に終わった。
 整理の未完といっても、ほんらいこの種の蔵書は完結性がなく、ふだんに補充と活性化の努力をつづけていかなければ存在の意義を失うということである。その点では、知名人やコレクターがのこした「文庫」のたぐいとは一線を劃する。
 しかし、大きな蔵書の活性化ということについて、大宅壮一はけっして楽観的でなかった。「一冊十円の雑誌でもカードにとるにまる一日はかかる。本を百万買えば、収容する設備に百万円かかり、二百万円人件費がかかる」というのが彼の口癖だった。図書館の運営者には自明の理であろうが、個人の蔵書家として早くからこうした認識に達し、その解決に努力した人は少ないだろう。もっとも彼の没後、収容設備や人件費は予想をはるかに越えてしまうのだが。(p11)

 今、マスコミ界に大宅壮一のような人がいなくなったことも問題だけど、そういう人を待ち望むのも無理なんでしょう。大宅壮一の真骨頂は週刊誌だったでしょう。週刊誌自体が元気がなくなっているのですが、ネット界に大宅壮一のような人って、思いつかない。
 1970年は三島由紀夫を失い、大宅壮一を失った年だったんだ、だけど、大宅壮一文庫は見事に生きながらえ、日々更新、成長している。