美しき「書く消費」

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 杉浦由美子の『ケータイ小説のリアル』を読んだら、とても腑に落ちることが多々ありました。肌理の細かい取材が根っ子にあるのは勿論、彼女のバランスの良い批評感度がかような好著を生んだんだと思う。「ケータイ小説の謎」が少しは晴れました。第五章の終わりに取材で会った書店員の言葉を引用しているが、まさにそういうもんで、本書で言う「美しい時代」を背景にしているかもしれない。

 「個人的には『ケータイ小説』は読みたいものではない。でも『ケータイ小説』のあり方は正しいと思う。『私の書いたものを読んで下さい』というのが出版の原点のはずだから」
 どんなに上から優性思想をおしつけようと、若者たちはそれをするりと通り抜けて、新しい価値観で新しい文化を作っていくのだろう。

 団塊ジュニアがよく使う「美しい」という言葉は自発的にみんなで何かをやることを「美しい」と表現するのだと杉浦は言う。まさに、ネットに書評投稿するのは「美しい行為」なのでしょう。しかし、改めて本書で確認したのですが、2006年第4四半期は投稿数で日本語ブログが最多だったと知ると「読む消費」を圧倒する「書く消費」のエネルギーに圧倒される。実に世界のブログ投稿数の37%が日本語ですからねぇ。
 その杉浦さんのブログがあったんですねぇ、知らなかった。(http://d.hatena.ne.jp/sugi170/)すぐに「お気に入り」に登録しました。その最新記事で、ひょっとしてそうじゃあないかと思うことが氷解しました。
 数年前、倒産したメタローグの書評雑誌『レコレコ』があって、書評道場の二代目道場主石川忠司が投稿書評に対して稽古をつけ判定を下すんですが、ネットでもアップされており、僕は良く覗いていました。的確な判定振りに感心していたのですが、特にある女性の方の書評は見事で石川さんはこの書評者に高得点を上げていました。殆ど「一本!」の判定だったですねぇ。僕もこの人の書評を楽しみにしていたのです。でも突然、2005年8月3日、倒産。創刊号の2002/6ですねぇ、bk1にも僕は書評投稿していたのですが、折角、持っていたバックナンバーを誰かにあげました。それで、杉浦さんが何というハンドルネームで書評投稿していたのか、確認がとれないのですが、僕が愛読した書評者にほぼまちがいないと思います。
 何か嬉しくなってこんな記事を書いてしまいました。そう言えば昨日、東京の朝日カルチャーセンターで保坂和志×石川忠司とのトークセッションがあったんですよねぇ。ケータイ小説を参照項として文学を語る切り口をこの二人に聞きたかった気もしますが、殆ど間違いなくそんな話はしなかったと思う。こちらのトークのレポも早く誰かがネットに公開して欲しいと思います。聞いて見たい。
 美しき「書く消費」のような行動パターンがこれからの若者の欲望ならそりゃあ、上から仕掛ける需要喚起、供給には引いてしまうでしょうねぇ。何かクルマ、ブランドものに興味のない若者が増えたといわれるのもわかる。でも、こういう傾向は「美しいもの」として肯定したい気分が僕の中にありますよ。
 でも、やっぱ「ケータイ小説」が読めないのです。

 かつては一般の人たちは「読む消費」しかなかったから、プロは「書く仕事」で生活できた。ある人気ミステリー作家は、全盛期には毎日100枚、コンスタントに書いていたという(ちなみに手書きだ)。日本人の活字消費量は世界一ではないのか。そのために供給する側はいくらでも仕事があった。
 ところが現在、一般の人たちが「書く消費」をはじめたために、当然、プロの「書く仕事」は減りはじめる。

 大学なり、マスメディアなり、会社なりに籍を置かないで筆一本でプロとして「書き続ける」ことの大変さを改めて思いました。おわりに著者は、「書評道場」に投稿していた頃に比べてプロとしてこのような新書を脱稿した現状の方が、優れているとは思えないと言っている。そのような認識があるからこそ、ケータイ小説を書く、「プロの作家を目指さない」書き手たちの想いは共感できると言い切るわけです。
 それが、書く消費を見つづけたいという著者の強い想いを呼び寄せるのです。何かわかるのです。哀しい業に付き合おうという覚悟であるかもしれない。それは自由=誇りにどこかで繋がる。