「リトルボーイ」の涙(1)

毎日新聞(7月9日)の特集記事、『平和をたずねて:呉戦災・軍港都市の悲傷/1 「真珠湾」と同じ光景=広岩近広」』を読むと既視感にとらわれる。呉大空襲があったおり、僕は赤子だったので、記憶はないとは思うけれど、そうではないのではないかと時々思うことがあります。
数十年前に当時の呉を舞台にした創作の生原稿が押入にありました。未完でぐちゃぐちゃなのですが、校正しながら、暫く連載アップします。
語り伝えられ、家族内では半ば神話化された呉の海軍工廠につとめていた僕の叔父がいましたが、二十歳を超えたばかりで、赤紙が来ないのに、自ら志願兵として飛行機乗りになり海の藻屑となりました。でも、何故か、拙宅が引っ越ししても、叔父の英霊写真は必ず居間に飾られ、僕の歳と殆ど同じ64年間を家族とともに過ごしていました。まあ、そんなエピソードは脇に置いてあくまで創作として興味のある方には読んで欲しいと思います。

Little Boy: The Arts Of Japan's Exploding Subculture

Little Boy: The Arts Of Japan's Exploding Subculture

参照:http://joplin.de-blog.jp/kaijuutachi/2005/01/post_16.html
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タイトル【「リトルボーイ」の涙】(仮題)

 昭和二十年八月六日午前八時のヒロシマ上空の気温は二十六・七度。雲は相変わらずなく、風速は一・二メートル。内海特有の真夏日が始まろうとしていた。
 この日、B二十九爆撃機エノラゲイ」は、「リトルボーイ」命名された原爆を搭載し、僚機「グレートアーティスト」と一緒にヒロシマめがけて、飛行していた。
 
 ヒロシマに近い瀬戸内の軍港である。街は、二回に渡るB二十九爆撃機による大空襲で五万七千戸のうち約半数の二万六百戸を焼失するという大壊滅を受けた。その余塵の消えぬ、もはや名ばかりの軍用道路を一台のリヤカーが防空頭巾を被ったモンペ姿の背の高い少女にひっぱられていた。
 荷台には何やらわからぬガラクタものが積まれていた。乾物の商品らしきものも見える。その中ほどの窪んだ穴にボロの布切れをベットにしつらえて、小さな防空頭巾を頭に気持ち良さそうに赤ん坊が眠っている。
 その赤ん坊を気遣いながら、これも防空頭巾を被りモンペ姿の小さい若い女が、リヤカーを力一杯、押していた。
 瀬戸内海に面し、東洋有数の良港として一漁村に過ぎなかった九つの嶺にかこまれた港街は明治二十三年三月海軍鎮守府が置かれ、更に三十六年には東洋一の巨大工場である海軍工廠が出来上がり、〈水兵と職工の港街〉として活況を呈した。K市は九嶺(くれ)が名の由来と聞く。
 ヒロシマに向かって走る現在の国道である旧軍用道路の海岸沿いに商店街が細長く続いている。長い隧道を抜けると、海の光にちょっぴりめまいがするが、近くに海上保安大学があり、江田島は旧海軍兵学校があったところである。リヤカーがやってきたのはヒロシマ方とは反対側で、K市駅の方ですが、その国道から山に向かって、七曲がりの坂道を上ると途中に無人駅がある。タクシーの運転手が嫌がるという狭い坂道をなおものぼって行くと、英霊達が沢山、眠っている墓地があり、港を一望に見渡せる中学校の校庭にたどり着く。この街は平野部が狭く、山々が海近くまでせまっているため山の中腹まで、民家がぎっしりと建てこんでいる。

 続きは次回です、(1)