「リトルボーイ」の涙(2)

「リトルボーイ」の涙(1)続き
 昭和二十年七月二十四日。米軍の艦載機八百七十機が、この街に襲いかかり、港の沖合で海空戦が行われた。リヤカーの後部で汗をぬぐっている若い女の義弟も、この戦いで英霊となった。その日、K鎮守府の発表によると米軍機は総延べ数、千三百六十機をもって、来襲したとある。
 その旧軍用道路を一台のリヤカーが逃亡者のようにうなだれて、ゆっくりと動いているのである。だが、二人の女は、それだからこそ、怒りをぶっつけるようにリヤカーを力強く引っぱり、押していた。噴き出る汗に高く上り始めた陽の光りが残酷な暑さとなって女達の躰を我慢出来ないほど火照らせるが、それでも気を取り直して、リヤカーを引っぱり押す若い躰からは艶めいた女の野生のかほりさえ漂っていた。この戦争は男達の始めた馬鹿げた戯け事であって、女達のあづかり知らぬことであっても、あまりにも多くの戦死者を出した。否応なく女達も戦争に巻き込まれた。も早、若い男達は数得ることの出来ぬ位、姿を消した。
 終戦時のこの街の人口は四十六万人を越え、狭いところに人があふれ、全国有数の人口過密地であった。戦後になると、それが半数近くとなる。この戦争ともろに生き戦った街全体が、海の要塞であった。だから、戦後、平和時代にふさわしい造船・工業都市として蘇ったことは事実であるが、ここには今、海上自衛隊の地方総監部がおかれていて、かって、幻の巨艦・戦艦大和を生んだ港には自衛艦が浮かんでいる。
 年取った人々はこれらの、まぎれもない軍艦を見て「やっぱし、この港は軍港だから、軍艦旗がはためくのはなんといってもなつかしい」と昔日の<海軍の町>を思い浮かべる年寄りもいる。
 これらの年寄りにとって巨大戦艦大和は、この戦争を勝利に導く象徴であった。しかし、この大和の雄姿を自分の目でしかと確かめた人は、あまりいない。というのは「大和」建造の始まった昭和十二年一月からこの港街は完全に軍規のベールに包まれ街そのものが要塞となった。機密保持のため工廠隣接地域の民家の海側の窓はトタン板で目隠しされ、鉄道も軍港沿いは板壁で覆われ、K線を走る列車の窓も板で塞がれた。リヤカーを引っぱっている若い女達の家近くにある軍港内で唯一の民間の港であった川原石港も閉鎖され、島まわりのの船は山腹をくり抜いた隧道の向こう側の吉浦港に回された。その一山離れた吉浦に向かって、リヤカーは隧道に近づいているのである。
 「戦艦大和」が完工した昭和十六年十二月八日に太平洋戦争が開始され、戦局が一挙に拡大したのである。「大和」はこの国にとっても、勝利を勇気づける戦いの女神であったが、「大和」は戦いもせず海の藻屑となった消えた。幻の「大和」であった。
 戦が終わって大人達はまるで一幕劇の夢を見た様な心地がして、果たして「大和」は現実に存在していたのかと、いぶかった。目隠しされた眼で幻視した夢物語ではなかったかと、現実の海に浮かんだ「戦艦大和」ではなくて、あれは英霊達が闇に紛れて建造した「幽霊船」ではなかったかと、子どもたちはその大人達の妄想に付き合って、「幽霊戦艦大和ごっこ」の遊びを考えたりした。>>(3)へ続く