パニックルーム

レンタル屋の更新ついでに、前々日に言及したエントリー『橋下徹/横山ノック』矢部史郎の『愛と暴力の現代思想』の「新自由主義アナーキー」からインタビュー記事を引用しましたが、映画『パニックルーム』について語っているのに、僕はこの映画を見ていなかったので、DVDを無料サービスで借りました。いや〜あ、面白かった。
以下の引用はネタバレになりますから、映画を見ていない方は読まない方がいいかもしれません。

矢部 セキュリティの上昇がシェルタレスな状態を解消するのではなく、逆に、セキュリティがシェルタレスを生みだしている、という話です。
 はじめは吹きさらしの状態から始まります。母親が娘を連れて離婚して、家がない。娘がキックボードを乗り回しているんですが、街路と家の区別がつかない。「うち」も「そと」もない。そういう状態から、豪邸を買い、パニックルームという完璧なシェルターを得る。娘は喜んで、シェルターを自分の部屋にすると言う。自分を護る防壁がやっとみつかった、と。しかし、パニックルームには莫大な財産が隠されていて、そのために空き巣を呼びよせてします。母親と娘はパニックルームに逃げ込むんだけれども、監視カメラが空き巣の顔をとらえてしまったために、彼らも引き下がることができなくなってしまう。防犯システムが犯罪をエスカレートさせて、「犯罪者」と「犯罪被害者」の非妥協的な闘いを生みだしてしまうわけです。防犯システムが築いたバリアーが犯罪をはね返すのではなく、かえってそのことによって犯罪にさらせれる。ジェルターがシェルタレスを呼びよせてしまう。これがひとつの軸です。
 もう一つは、育児の問題です。大人が防犯システムを駆使して危険にさらされることを免れようとする一方で、こどもは大人と同じ環境にさらされる。豪邸や隠し財産や防犯システムのために、こどもは命の危険にさらされる。母親も父親も、自分の娘を保護しようとして保護することができない。映画の中で、こどもの命を救うのは、強盗なわけです。そしてその強盗を警察が逮捕する。財産が犯罪を呼び込んで、防犯が暴力をエスカレートさせて、そのなかで唯一こどもに関心を払っていた人間を、警察が逮捕する。大人の闘いにこどもを巻き込まないという規範や、こどもを保護しようとする義務感というものが、つまり社会的な行為が、警察によって取り締まられてしまう。
 こどもを危険にさらしている者が「犯罪被害者」で、こどもを危険から救った者が「犯罪者」として取り締まられる。警察の秩序はそういう秩序だ、ということです。だから、母子はまた振り出しのシェルタレス状態に引き戻されてしまう。最後のシーンは公園の吹きさらしのベンチで終わるわけです。
 防犯の問題と、育児の問題と二つあるんだけれど、二つ目の育児の問題、こどもが大人と同じ環境にさらされている、大人とこどもがボーダレス化しているという問題は、新自由主義のもっとも破壊的な面だと思います。こういうことを言うとまた「矢部はバターナリズムだ」ということを言う人がいるんだけども(笑)、だけどこういう面を考えないというアナーキーな態度は、新自由主義アナーキーとどれだけ違うものなのか、逆に問いたいんです。(p159〜160)

この問題は憲法九条にもかかわるセンシティブな選択が要請されることにも繋がるが、ここにも前に書いたことがありますが、マンションに住んでいるある老夫婦が「セキュリティ」としてベターな選択をしたのは、外出する時は、鍵をかけない、玄関先に数枚の一万円札を裸で置いておく。老夫婦の判断は空き巣が入っても、目にとまった数枚の万札に満足して部屋まで入らないだろうというシミュレーションなのです。なるほどなぁと思いました。それによって100%の安全の確保が保証されないけれど、監視カメラを設置してガチガチのセキュリティをしたところで、予想外のリスクが生まれることもある。「パニックルーム」がパニックを生むそんな真逆の事態が生まれるリスクについて柔軟に考えるべきなんでしょう。