代理社会から編集社会へ

先日、労働情報プラザに久しぶりにお邪魔し、リニュアールなった『オルタ』を拝読しました。二階のプラザは、今月末に閉鎖になりますが、月末の31日は開館します。その日、『オルタ』を閲覧出来るでしょう。先日はあまり時間がなかったので、『リニュアール版オルタ』をじっくり読めなくて、id:Arisanが書いている『イラン・パぺ、パレスチナを語る』の書評だけを読みました。

  「すなわち、イスラエルユダヤ人の私生活は、周囲にアラブ人がいなければもっとずっと良かっただろう、というメッセージです」(94頁)
 つまりそれは、個々の生活の安全と幸福のために、他者の隔離と排除を当然なものと考えせるようなメッセージである。この国では、このメッセージに同意することによって、人々は国家の起源から続いている暴力とねじれの否認に自然と荷担していく仕組みとなっているのだ。守られ、追求されるべき日常生活の正当性と価値観が自明なものとして先にあり、その自明さを根拠として国家のイデオロギーが当たり前に受容されていく。そこでは、排除される他者の生命や存在は、その現実的な重さを失う。
 だがこれは、なんとわれわれに馴染み深いメッセージだろう。日本のわれわれもまた、他人を前にして人間であることよりも、選別と排除を自明なものとする国家や市場の論理に同意して生きることの無難さに馴れてしまっていはいないだろうか。
 パペ氏の語り口から伝わってくるのは、人を他者から隔てようとするこの悪しき力に抗して溢れ出る人間としての感情である。(本誌・59頁)

ところで、ウラゲツさんが、リニュアールなった『オルタ』についてとても真摯な紹介をしている。

『オルタ』は編集担当の細野秀太郎さんが営業・宣伝・広告営業・発送・販売管理をたった一人で兼ねているそうで、苦労が偲ばれるが、一人で作られたものだからこそ誌面の流れに一貫した配慮の個性が感じられる。一部800円。基本的に直接購読が中心のようで、販売店を現在募集中とのことだ。人文社会系のしかるべき売場に欠かせないコンテンツであると保証できる。次号の特集は「1995年」だそうだ。

一人で雑誌作りを行う編集者の大変さを改めて思いますが、松岡正剛氏が『世界と日本のまちがい』で、《私は、そもそも近代社会というのは「代理の社会」だというふうに思っています。》と枕をつけて、政治も、料理も、教育も、法律も、旅行も、食事も、企業活動も、宣伝も、何もかも他人がつくる機関にまかせていく。そして大衆はそれに対して文句をつければいいということになる。そして冷戦時代では「代理戦争」まで究極化したのですが、中東問題にしろ、そんな側面がある。当事者性が薄められるということでしょう。見えないところで「誰か」がドブ掃除をしてくれる。
そこで、松岡さんは、こんな「代理社会」が二十一世紀の理想モデルになるのはとうてい無理だ。「編集の社会」にしていくべきだと提唱しているのです。「代理を編集で取り戻せ」ということ。
恐らく、個々人々が編集力を身につけることから始めるしかないでしょうねぇ。
大衆社会の基盤は代理であろうが、編集を基盤とする社会はなんであろうか。

確かに食品はネットに落とし込むことは出来ないもんなぁ。