ポニョとジョゼと人魚


梅田で「崖の上のポニョ」を観ました。
理屈を考えないで、頭を意識しないで、スクリーンに身を任せて、こんなにも、いい気分になった「感情移入度」において最高点をあげたい。
「オマエは五歳児のジジィかぁ」と冷笑されかねないが、文句なく面白かったのです。
後でそれなりに、説明して言語化するかもしれないが、今晩は「ポニョ♪、ポニョ♪」と、熟睡したい。
オヤスミ♪

参照:田辺聖子の『ジョゼと虎と魚たち 』のアベイズミさんのレビュー『アタイたちはお魚や。「死んだモン」になったー』
ジョゼ虎と天然コケッコー - 葉っぱのBlog「終わりある日常」
四年前の旧ブログより(7/4記)。

 「幸福とは/どんなもん/死んだモン」、 やっと、今日、 “原作”を読みました。筋立ては映画の方が複雑で、固有名詞のある登場人物もジョゼと恒夫しかいない、だから二人の世界はあちらで、固有名詞のない人々のいる世界がこちらで、又は、海の底竜宮城でジョゼと恒夫がゆったりと、「死んだモン」として「幸福を噛み締める」っていう図を読み取る事が出来るけれど、映画の方は「生きる」強烈な意志が感じられる。図式化すれば、田辺聖子の原作は閉ざされた世界が前景化しているが、映画の方は外に向かって開かれている、陽に向かう向日葵の指向性を感じるということです。それは恐らく、象徴的には “ジョゼと虎と魚たち(角川文庫)”には登場しない施設で知り合ったヤンキーの新井浩文が映画で圧倒的な存在感を示すシーンに表現されるであろう。彼はただ、怒る、吼える。
そんな年上の新井浩文をジョゼは、「アタイはオマエの母親」と宣言する。映画を観ている時は、そのことが小さい、小さい(何せほんのちょっとのシーンですから)エピソードと思っていたのに、原作を読むと、新井浩文のヤンキーはいない。一緒に映画を鑑賞した友人は「ジョゼには、あのヤンキーがいるではないか…」、「この映画の欠点はジョゼがあまりに魅力的に描かれ、別れに説得力がなかったということ」、「だって、妻夫木が選んだ女(女優の名前は忘れました)*1影が薄い」*2、「そのあたりにリアルさが欠けるんだよな…。」まあ、かような疑問符があるから、ラストシーンの妻夫木の号泣が説得力を帯びてリアルさが立ち上がるのですが、大体、映画と原作があった場合、特に文芸ものでは、映画は原作に負けるが、この映画に関しては、原作と独立した逞しいものに仕上がっている。暗喩で言うなら、原作は「魚たち」の物語ですが、映画は「虎」の咆哮が聞える。裏声はヤンキーの新井浩文で、ジョゼは妻夫木を置き去りにして海面に踊り出た人魚姫で、この世があの世になって海底深く消えうせて、あの世がこの世になって虎と人魚の物語が始まる、そんな阿呆な夢を見ました。原作が魚で映画が虎になっている。そんなところです。

 /ジョゼも恒夫も、魚になっていた。/ー死んだんやな、とジョゼは思った。/(アタイたちは死んだんや)
 /恒夫はあれからずうと、ジョゼと共棲みしている。

 (アタイたちはお魚や。「死んだモン」になった……)/と思うとき、ジョゼは(我々は幸福だ)といっているつもりだった。
 映画はそこから、立ち上がる。原作を置き去りにする。

「崖の上のポニョ」感想(ネタばれあり) | 女子リベ 安原宏美--編集者のブログ
『赤い蝋燭と人魚』の拙レビュー「北ヨーロッパの小さな友達へ」

*1:上野樹里です。m(__)m

*2:でも、今ではときめいていらっしゃる