からだ・ことば・はざま

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)

「新潮」8月号の多和田葉子×川上未映子との対話「からだ・ことば・はざま」は2008年5月9日、ベルリンにおいて行われたものですが、近来稀なスゴイ対話集になっている。
いつか、必ず、いずれかの作者の単行本として収録されると思うから、引用はしないけれど、早く読みたい人は、もう、9月号が発売されているから、店頭での購入、立ち読みはできないでしょうから、図書館でも借りて読んで下さい。
川上さんが、最初に小説を書いた時、どう書けばよいかが全然わからなかったので、多和田さんの『ゴットハルト鉄道』を手で全部書き写して多和田葉子体験をしたと言う。
そうか、多和田さんだったんだと、川上さんがより身近に迫ってきました。この本は読んでいるはずなのに、棚にない、どこかに寄贈したのでしょう。又、又、読みたくなりました。
やっぱし、一部引用したくなりましたので追記します。

川上 やっぱり文末に句点があるとホッとするんでしょうね。文章が完結して、そこで一文を理解できる。文章というのは、センテンスが終わったところで反芻して一個の書かれていることを納得するから、一文は短い方が理解しやすい。でも川上未映子の書く文章というのは絶対保留への意思だ、と評論家の石川忠司さんが書いてらして、なるほどと思いました。絶対保留、性格にも関係してるんですね(笑)、ひたすら読点でつないでいって、句点が全然ないから、どこで終わらせていいのかわからない。でも、私たちの会話に「。」って、実際にあまりないんですよねぇ。
多和田 ない。生活にもない。身体にもない(笑)。
川上 だから、私にとってはこっちの方が自然だったりして。まあ、自然だからいいということではないのですが。樋口一葉の文章も句点がほとんどなくて、作品中に入り込まないとそれを誰が見て誰が聞いたのかが、わからない仕組みになっています。だから波にのれば本当にそこにいるような雰囲気になる。すごくエキサイティングです。多和田さんの『文字移植』にも読点だけで綴られる文章がでてきますよね。
多和田 短い文章が並んでいるとわかりやすいのは、パソコンを使ったプレゼンテーションみたいなものですよね。セールスマンの会合じゃないのに(笑)。括弧を使っていないと、読んでいるときに頭のなかに広がっていく空間が全然違うものになるじゃない。あの感覚がすごく面白いなと思うんです。
川上 同時に、ダダ漏れになっていく不安もあります。この快楽と不安って、おしっこを漏らすときの快感に近いのかな、とふと思ったんですけど。
多和田 えっ、お漏らし?(笑)
川上 二十四歳のときだったかな。夏の夕方に冗談みたいなすごい土砂降りがあって、私はすごく愉快になったんですね。このときかなり差し迫ってトイレに行きたかったんです。でも、誰もいないし、もうパンツまで濡れているから、ここで私がおしっこをしたってもう大丈夫だろうと。服を着たままお風呂に入るようなタブーといわれる環境に身をおいてみたいと思って、服を着たまま歩きながらおしっこをしたんですよ。あのときの不安と恍惚感。世界に「おまえ、何やってるんですか」って言われながら抱きしめられているような。雨にひたすらに打たれながら、雨と混じっていく感覚。そして、絶対してはいけないと教えられたことをやっている、あの得がたい快感と不安の感じを、今かぎ括弧のない文章で思い出したんです(笑)。
多和田 ああ、でも、そうかもしれない。
川上 これいいんだろうか、社会的にどうなんだって不安もあって。世界に突き放されながら……。違う、世界に反抗しながら抱きしめられている感じ。
多和田 社会に突き放されて、世界に抱きしめられたんじゃない?
川上 そうですね。あの感覚が文章の快楽と不安のようなものと結びつきました。ー『新潮 8月号「対話多和田葉子川上未映子』よりー

かって、小説を書いていた友人が、山手線の駅前のアパートの二階で、酔っぱらうと雨戸を開けて、走っている電車が見えるロケーション(アパートは駅からゼロ分のような近さだったのです)で一階の屋根に向かって放尿するのです。あれにはマイッタが、男根的暴力性を感じました。川上さんのダダ漏れと多分違うと思う。ダダ漏れは読んでいる僕にさえ「至福」を与えてくれる。