今でも「理想の時代」を突っ走る狂いの「全身編集者」

わたしの戦後出版史

わたしの戦後出版史

 音羽一橋と言えば、出版界を君臨する大出版社であるが、そこの元取締役であった編集者、鷲尾賢也と上野明雄が生徒よろしく聞き手となって拝聴する聞き語りの書『わたしの戦後出版史』を熱く読みました。
 著者の松本昌次のは、点数だけは多くても商品回転率の悪さに四苦八苦して、それでも、出版流通革命を推進してきた未来社主の西谷能雄のもとで、編集に携わっただけに、その言葉は故事新編の発見と重みがある。
 朝日新聞の「論座」の休刊について、id:leleleさんが、書籍出版 双風舎の記事をアップしていますが、単に一雑誌の問題だけではなく、新聞社としての劣化が気になります。今、新聞社でダントツ元気なのは日経でしょう。確か、広告料が上がっているのは日経だけでしょう。一度、シルバーライフからみで電話取材を受けたことがありましたが、ほんの一行、僕について触れられていただけなのに、ちゃんと掲載新聞を送ってくれましたw。

そういえば、7月あたりに大阪朝日の記者から取材をうけました。戦争特集で赤木さんの論考を取りあげるので、裏話を聞きたいとのこと。もちろん応じましたが、その記者は見本紙を送ってくれませんでした。私は新聞をとっていないので、取材内容が記事にどう反映されたのかを知らずじまい……。大朝日とかはどうでもいいので、新聞記者としての最低限の配慮は、見せてほしかったですね。(sofusha.moe-nifty.com/blog/2008/09/post-8305.html)

 僕だったら電話をして「どうして送ってくれないの?」って言っちゃうのですが。イヤミのおじさんになるのかなぁ、レレレのおじさん はそんなことをしないのかも知れない。

ーーそうはいっても、出版界には若い人もいるんですから、「絶望のきわみ」と同時に、日々活動して生活しなきゃいけないわけですから、やはり希望はいるでしょう。
松本 たしかにおっしゃるとおり、人生はそうです。それはそのとおりですが、しかしそれだと、自分を許容してしまうんです。そうしていつも退路をつくってしまうんです。汚いこともいろいろあるけれど、それを受け入れたうえで、そのなかで、それを逆手にとってやらなくてはいけないんだと納得するわけです。そこにズルッといってしまうんです。あなたがたに言っているんじゃないですよ(笑い)。ちゃんとそこを見極めているならいいんです。しかしもっともらしい顔をして、きれいごとではやっていけない、なんていうのが大勢でしょう。清濁併せて呑んでいかなくては、と。でもそうすると、実際は歯止めがきかなくなるんですね。(P340)

 痛い言葉です。いつの頃からか、出版を語るにマーケティング理論の語り口があたりまえのようになっているのではないか、中俣暁生さんhttp://d.hatena.ne.jp/solar/20080914の記事は、今日的な出版と出版ビジネスに関して網羅的に問題提議してくれている。
 大塚英志東浩紀の対談集『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)で、文学シーンを語るのに戦略的であるのでしょうが、特に大塚さんは、マーケティング理論で露悪的にあえて語っていますねぇ。
 そうした振る舞いは例えば、聖域を侵すものとして笙野頼子さんを怒らしてしまうのであろうが、売れても売れなくてもいいじゃんていう可笑しさが出版人にはあると思うのです。そんなバタイユ的哄笑が出版の動機付けになることもある。そのためには、出版人には極貧を屁と思わない耐性が必須だと思うよねぇ。
 そうでなければ、メディアミックスであれ、なんであれ、ハイリターンのビジネスを立ち上げればいいのです。
 それか、松本昌次さんが言っているようにように、《もしわたしがいま若ければ、本づくりなどしないで、別の直接的な文化運動をやるほうがいいなという気持ちです。極端にいえば量的に狂奔する日本の出版界は絶望的でしょう。年間八万点も新刊が出て、うち四〇パーセントが返品で断裁される現状をどうすればいいんですかね。p341》
 bk1に『わたしの戦後出版史』の書評を投稿しました、タイトルは『今でも「理想の時代」を突っ走る狂いの「全身編集者」』です。こんなハイテンションな書評を書いたのは久しぶりです。やはり、書評であっても、その本に「惚れない」と書けない。つまらない、腹立たしいでは、書けない。