ポニョ♪「水のような文体」

 前のエントリーでミクシィ内ですが色々コメントをくれて「ダダ漏れ」に感応して下さったので、続きを少し、又、又、引用します。ところでチビコロさんが「社会に突き放されて、世界に抱きしめられた」 にリンクして宮内勝典のブログを紹介しているのですが、 宮内さんも常にそのことに対峙している作家ではある。♪すばる文学カフェ(宮内勝典・青野聰) - 葉っぱのBlog「終わりある日常」

多和田 文章には始めと終わりがあるけれど、水には始めも終わりもない。右も左も逆もないし、対称性もない。そもそも水は形がないから、静止させておくことは基本的にできないし、何かの容器に入れると容器の形になってしまう。
 でも、それはまわりの言うなりになるということではなくて、自分の型ではなく自分の勢いで山をも切り崩すということなんです。人間の身体も八割くらいは水でできていて、水が出たり入ったりすることで生きているわけです。水のような文体というと、小川のようにさらさら流れるように感じるかもしれませんが、そうじゃなくて。
川上 海に入ると、自分も輪郭のない大きな自然物の一部だという感覚がかなり前面に出てきますよね。刷り込みかも知れませんが。下手すれば大便のほうだって何気なくできてしまう人がいる(笑)。でも、海だと大きくてほぼ枠がないから漏れていくことに寛容性を強く感じるけれど、それが銭湯やプールみたいに枠に入っちゃうと……。やっぱり、水本来の自然性が失われてしまうんでしょうね。……。
多和田 そうですよね。銭湯やプールでは、できるだけそういうことはしない方がいいですよ(笑)。
川上 やっぱりフォーマットに入ることによって、起こるわけです。郷に入りては郷に従えって、よく言うけど。
多和田 その使い方は、ちょっとおかしいんじゃない?
川上 そうですか。ここでいう郷って、いわゆるフォーマットのことだとすると、すべてのものは、一つのフォーマットに入れると、そのフォーマットのなかでのありようを強要されるのかなって。だから、プールの枠に入るとプールの水になって、それがコップだと飲み水になる。
 人間だってそうじゃないですか。人との関係性によるところが大きい。人を好きになるのに、「この人といる時の自分が好き」という言い方があるけれど、それって自分が今この形になっているのが心地よいってことですよね。そういう私にしてくれる関係性。反対に窮屈だと感じる関係性もある。文章がすごいと思うのは、そのフォーマットに入るだけじゃなくて、そのフォーマット自体までつくることができる可能性をもっている。
多和田 なるほど、そういう意味ですか。人間も話している相手によって、自分の編成が全然変わってしまって、違う人間になったりするけれど、でも、変わりきれない余りみたいのが残る。歯もそうですよ。表情は変わっても歯はずっと同じで、急に自分の歯を見るとものすごく原始的でぎょっとしたりして。
川上 そうですね、歯は顔みたいには笑いませんね。ー『新潮 2008・8「対話 多和田葉子川上未映子」』ー

 最近、部分入れ歯を取り替えました。又、一つ歯が抜けたからです。段々と、総入れ歯が秒読み段階に突入している。歯が一本もなくなったら、「歯の不在」が笑っている表情に見えるのではないかと、ふと思いました。総入れ歯のお袋が義歯を外すと笑っているように見えてしまう。頬が凸凹になって金魚の「ポニョ」みたいになる。
 ポニョ〜歩尿〜ポニョ♪
 1960年代の後半だったが知人が「海底牧場」をつくるんだと数人で川崎に研究所を立ち上げたことがあったが、あの時代、マジでそんなことが信じられたなぁ。