平和を守るためであっても自死を認めない

戦争が遺したもの

戦争が遺したもの

 id:leleleさんのエントリーで8月17日に朝日新聞の「二つの戦後」という記事に関連した取材を受けたが、新聞を送ってくれずいまだに肝心の記事を読んでいないとまっとうな疑念を連日に渡って書いているので、僕も気になって図書館で新聞記事にあたりました。
(1)http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2008/09/post-8305.html
(2)http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2008/09/post-69b6.html
(3)http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2008/09/post-da50.html
でも、ミクシィブログでかような記事要約がありました。Mさんの了解を得てコピペします。

今朝の朝日新聞の「二つの戦後」という特集連載に雨宮氏・赤木氏の名前が載っていた。
『格差泥沼「いっそ戦争」』と題され、「戦争」について若い世代の四人のケースが書かれている(以下敬称略)。可能な限り記事の要約をする。
雨宮処凛のケース】
雨宮のもとに「どこへ行っても「死ね」といじめられる。いっそ戦争でも」というメールが届く。差出人は蕎麦屋で働くフリーター。イラク戦争直前にイラク行きをした雨宮は、帰国後自身の自殺未遂の体験を話すと、自殺願望のある若者から相談が相次いだ。どちらが「戦場」かわからなくなったという。
「あれ以降、他人を巻き込む戦争願望の人も増えた」と雨宮は感じている。
赤木智弘のケース】
雨宮のいう「あれ」とは赤木智弘が月刊誌「論座」に寄稿した「『丸山真男』をひっぱたきたい 希望は、戦争。」のことである。
当時、赤木は栃木県佐野市の自宅近くのコンビニで深夜のアルバイトをしていた。そんな生活を10年近く続けていたある日、偶然、丸山の評伝を手にした。
太平洋戦争末期、東京帝大の助教授だった丸山は陸軍二等兵として召集される。そこで丸山は中学にも進んでいない上等兵下士官から繰り返し殴られたという。
赤木はこう書いた。
「私たちにとっての戦争は現状をひっくり返して「丸山真男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ」
【斉藤要のケース】
赤木の「希望は戦争」の発表後、間もなく「希望は、戦争?」というブログが生まれ、その主張が載った。
中心はフリーターの斉藤要。高校を中退。就職の面接は三十数回落ちた。「いずれ自分はホームレスになるのか」という不安を覚えていた頃、ネット上で赤木の主張を知った。
「希望は、戦争?」ブログは賛否が殺到して、パンク状態になったという。
斉藤は「戦争に反対する人らは、僕らを救う他の方法を教えてくれない」と話す。
【加藤丈典のケース】
NGOのスタッフとして中東で活動していた加藤は、ヨルダンの首都アンマンのアパートでネット上の「希望は戦争」という主張を見た。
日本で二年近くフリーター生活を送った。「負け組と勝ち組に分かれる社会が面白くなかった」。ある時、誘われてNGOに入ることに。
アンマンで暮らして一年、難民キャンプは飲み水が不足している。汚れた水で下痢や腎臓病になる人が後を絶たない。
「ここでは希望は水なんだ」とネット上に書こうと何度も思ったが、数年前の自分と重なり、キーボードを打つ手は止まる。

 加藤さんは、「希望は、戦争」ではなく、「希望は水」なんだと一息に言えない痛みがのど仏に刺さっていたのだと思う。かって僕も斉藤さんのブログに加入し、退会しました。
 去年の夏、「戦争と平和」のエントリーで、「赤木さんの『希望は、戦争。』『続、希望は、戦争。』、に関して、別の回路から言及するなら、かって武田徹さんが提議した、鶴見俊輔さんの「自分は人を殺した、人を殺すのは悪い、と、一息でいえる人間になろう」 をめぐってのやりとりがありましたが、平和はすべて人が享受出来るし、「平和は悪い、嫌いだ」とは、大声で言う人はいないでしょう。赤木さんだって、戦争は大好きって言っているわけではない。「自分たちは戦後、人を殺していない、誇るべき善き人たちであった。人を殺すことは悪いと、これからもどんどん、言いましょう、平和万歳!」そのような多数の言説を前に「あえて、希望は、戦争。」と言ってしまった叫びと、武田さんが「自死を絶対認めない」、<私>に拘泥する「ブルーハーツ」を取り上げましたが、そのこととどこかで繋がっていると思う。」と書いたが、自死を認めないは確固たる倫理の軸になると思う。
 鶴見さんの言葉以前に「自死を認めない」がある。功成り名を遂げた人がシャレのつもりか本音か、時として「大人しく黙って死んで下さい」みたいな言い方をするが、「自死を認めない」が核にあるなら、そんなことは言えない。
 年間3万人以上の自死者の上にかろうじて平和が維持されているとしたら、待てよ?って言う立ち止まりが欲しい。
 こういう臭い物に蓋したことで維持される平和ってなんだろう。政治家の言葉が子供の誕生日なんて、又、そういうことを恥ずかしくもなく言ってくれる政治家を親近感をもって受け入れる選挙民が一方では沢山いることも間違いない。

そのことは丸の内の昼休みを歩けばどこにでも食後の散歩して居そうなOLのような風情の小渕少子化相の議員相手の就任時の挨拶がよく表していた。
「実は今日は私の長男の1歳の誕生日なんです」
世間では取りざたされなかったが、その耳を覆いたくなるような公私混同の妄言に私は耳を疑った。
おそらく小渕家ではあたかも皇室のお世継ぎのように小渕三世誕生を祝ったことだろう。
現状にかんがみるに、やがて何十年か後にはその1歳の長男が国会議員になるはずである。そして議員相手の就任挨拶に長男のことを持ち出すというのは、その言葉を国民が聞いたときの無意味さとはうらはらに、二世議員のひしめく自民党議員の集まるその場の空気に一定のリアリティを醸しているということだろう。
そんな議員と国民の吸っている空気の乖離している国に私たちは住んでいるということだ。ーshinya talk(http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20080926)よりー

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