「J社会学?」批判の書とも言える
おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)
- 作者: 後藤和智
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
- 発売日: 2008/09/10
- メディア: 新書
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先日、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』のエントリーをアップしたとき、ある人から「J社会学」という鍵概念を示唆されましたが、僕は「J社会学」ということを始めて聞いたもので、「主に日本語での社会分析に特化した、保守的かつシステム維持志向をもつ、いわゆる世俗操作的な社会学のこと。」と定義されてもぴんとこなかったのですが、後藤さんの本書を読んで、そうか、このような「J社会学」を背景に置いたためにする「若者論」に腹立たしさを感じ、怒りが爆発したのだと。
若い世代に限らず、若者論が関わってくる分野で重要なのは、「世代」概念の呪縛から脱することではないだろうか。すなわち、この世代はこれこれこういう環境で育ってきた世代なのだから云々、という決定論を乗り越え、普遍的な判断基準に基づいて種々の問題を検討することだ。
普遍的な基準とは、すなわち科学であり、人権であり、経済であり、法である。例えば、ある人が何らかの理由で困窮している場合、それは経済的な問題であり、また政府による生存権の保障の問題である。そして、現代の多くの問題は、これらの側面で解決できるものが多い。
下手に壮大な社会論、もしくは世代論に手を出してしまうと、議論は無意味な世代間闘争に陥ってしまうだろう。現在、決してよくない状況に陥っている人たちへの救済は、本来は科学的な実態の把握に基づいて語られるものであり、できるだけリスクを少なくして便益を上げる政策設計によって解決しなければならない。お前は経済成長の時期に就職できたからとか、お前は子供の頃から恵まれた環境で育ってきた世代だからという理由で自己責任論を述べてしまうのは、許されざる行為である。
だからこそ「世代」という鎖に縛られ続けているものとは、ここで決別しなければならない。「世代」だけを基準に内ゲバを繰り返しているのでは、真に問題にすべき権力の構造を素通りしてしまうからだ。そしてそれは、権力者にとってはもっとも都合のいい事態であるのだから。(p214)
すごくマットウな結語です。経済の問題で言えば、累進課税率を元に戻すとか、労働三法をちゃんと守らせるとか、トンデモない科学的判断で、食品偽装とか、擬似医療行為をさせないとか、基本的人権はやっぱり強固な拠所になれる、その拠所を教育が担うとか。
しかし、この結論に到着する道行に宮台真司、東浩紀、香山リカ、三浦展、藤原和博、藤原正彦、坂東眞理子、荷宮和子、寺脇研、中島岳志、鈴木謙介から宇野常寛まで後藤さんの「快刀乱麻を断つ」太刀裁きは、迷いがない。2004年から一貫して「俗流若者論」の批評的検証を行っているぶれない「核のある決断主義」(まあ、本来の決断主義は核がないが「あえて」決断するのですが、)のたまものでしょう。
僕なんか、いまだに還暦を過ぎてもバカみたいの迷走しているから、宇野さんの『ゼロ年代の想像力』に感心したりするのです。
文学の世界で文壇はいまや作動していないみたいですが、「J社会学」というフレーム内で論壇人たちが、仲良くやってんだなぁ、と思いました。それに比して、後藤さんは、そんなフレームから逸脱して、「世代論はクソ食らえ」と、若者論がナショナリズム回帰に都合良く利用されているなど、データに基づかない、彼らの適当な動員論に怒っているわけで、結語に行くまでは、両手で数えきれない論壇人たちを斬っている。
恐らく後藤さんは戦後民主主義の倫理を信じ切って、その果実を採取すべく地道に科学的、日常的に学び、運動していくと、いうことでしょう。だから、結論はこけおどしの目新しいものはないわけです。
♪http://www3.nhk.or.jp/news/k10014700801000.html#