竹内好の魯迅についての「政治と文学」

贅沢な全集だと思う。造本もしっかりとして、初版が平成元年なんですねぇ、この小学館の『昭和文学全集 27巻』に収録されている作家は、福田恒存花田清輝江藤淳吉本隆明竹内好林達夫で、確かにまだ、「中流幻想」も生きていた良き時代で、出版社の体力もあったから、かような出版が出来たんですねぇ、定価は4000円。
引用している竹内好の『魯迅』の底本は『竹内好全集』筑摩書房刊ですが、年譜を見ると、昭和18年、33歳の時、「魯迅」の執筆をすすめ、11月、日本評論社に原稿を渡すとある。12月4日に応召入隊、中国湖北省で鉄道沿線の守備につく。翌年、日本評論社で『魯迅』が出版。武田泰淳が校正を行うとある。1944年と云えば僕が生まれた年で、そうか、64年目にして僕はこの作品を読んだのかと…、それにしても全然色あせていないどころか、新鮮な気持ちで読むことが出来ました。図書館からリサイクルでもらったのが申し訳ない。

「文学文学と騒ぐ」こと、文学は「偉大な力を持つ」と信じること、それを彼は否定したのである。文学が政治と無関係だと云おうとするのではない。関係のないところには、有力も無力も生ずるはずがないからである。政治に対して文学が無力なのは、文学がみずから政治を疎外することによって、政治との対決を通じてそうなるのである。政治に遊離したものは、文学ではない。政治において自己の影を見、その影を破却することによって、云いかえれば無力を自覚することによって、文学は文学となるのである。政治は行動である。従って、それに対決するものもまた行動であらねばならぬ。文学は行動である。観念ではない。しかしその行動は、行動を疎外することによって成り立つ行動である。文学は、行動の外にでなく、行動の中に、廻転する球の軸のように、一身に動を集めた極致的な静の形で、ある。行動がなければ文学は生れぬが、行動そのものは文学ではない。文学は「余裕の産物」だからである。文学を生み出すものは政治である。しかし文学は、政治の中から自己を選び出すのである。従って革命は「文学の色彩を変える」のである。政治と文学の関係は、従属関係や、相剋関係ではない。政治に迎合し、あるいは政治を白眼視するものは、文学でない。真の文学とは、政治において自己の影を破却することである。いわば政治と文学の関係は、矛盾的自己同一の関係である。前に引いた魯迅の「官の云う『民』と民の云う『民』と」の区別に似たもの、政治の見た文学と真の文学との区別がここにある。真の文学は、政治に反対せず、ただ政治によって自己を支える文学を唾棄するのである。なぜ唾棄するのかと云えば、そのような相対的な世界は「凝固した世界」であり、自己生成は行われず、従って文学者は死滅せねばならぬからである。文学の生まれる根元の場は、常に政治に取り巻かれていなければならぬ。それは、文学の花を咲かせるための苛烈な自然条件である。ひよわな花は育たぬが、秀剄な花は長い生命を得る。私はそれを、現代中国文学と、魯迅とに見る。ー小学館『昭和文学全集 27』竹内好魯迅」(p839)よりー

いまだに「政治と文学」の問題はビビッドな問題系ですねぇ。
【参照】
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0716.html
中島岳志・魯迅 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」
魯迅 井上紅梅訳 阿Q正伝
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