「ワガミチヲユキトモニアユミマタワカレテアユマン」

今回が最後の章前半、中島岳志の「竹内好の残したもの」シンポのレジュメアップです。
中島の講演テーマは「アジア主義ナショナリズム竹内好における60年安保闘争と主体形成」です。
中島の講演のキモは一方に「ドレイ」があり、他方に「主体」がある、明晰な見取り図で、竹内を分析しようとしているが、語り得ぬ余白、分析から逸脱するわからなさ、その正体不明さが魯迅にもあり、竹内にもあるということに結局は思い至ったということにあると思うのですが、だけど、大澤真幸鶴見俊輔のようなどちらかと言えば「文学者」としての竹内ではなくて、アクティビストとしての竹内に接近して、如何にドレイ感情から脱却してひとりひとりが、「主体形成」をなす道筋をつけるかの知恵をくみ取ろうとする問題意識があるんだと思う。

1995年1月  「沖縄から部落まで」
     1月29日 京都の部落問題研究所訪問
     10月  安保問題研究会に参加
     10月7日 「近代の超克」脱稿(11月出版)
     10月9日 「安保批判の会」成立、参加
             →この頃から安保廃棄の実践活動に積極的に参加
     12月1日 講演「基本的人権と近代思想」(@大阪朝日講堂、部落問題研究所主催)
             →前日、谷口修太郎に京都被差別部落を案内してもらう
1996年1月25日 講演「方法としてのアジア」(@国際基督教大学
 ・「西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、このような文化的巻き返し、あるいは価値の上の巻き返しによって普遍性を作り出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。…その巻き返すときに、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法をしては、つまり主体形成に過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」
     3月5日 講演「日中関係と中国問題」(@憲法問題研究会
     4月4日 「安保批判の会」批准反対懇願大会で講演。そのあと藤山外相と面会
     4月26日 講演「殉教者の霊の前に」(@中国人俘虜強制連行受難者国民大慰霊祭)
 5月*『新日本文学』5月号座談会、「近代の超克をめぐって」(竹内好伊藤整佐々木基一、鶴見俊)・収録は3月17日
        18日 「安保批判の会」代表の一員として岸信介首相を面会
        19日 強行採決
        21日 東京都立大学に辞表を提出
        31日 朝、鶴見俊輔に電報を打つ(前日、鶴見が東京工大に辞表を提出したことを知る)
           ・「ワガミチヲユキトモニアユミマタワカレテアユマン」
  「民主か独裁か」(→6月4日『図書新聞』掲載)
 ・「民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でないものは民主である。中間はありえない」
     6月2日 講演「四つの提案」(@文京公会堂「民主主義をまもる国民の集い」)
        4日 「6・4闘争の街頭に立ちて」(12日に『朝日ジャーナル』に掲載)
         →「日本に、下からの民主主義が、ほんとうに根づく息吹が感じとられる」
       5日 『週刊朝日』に「民主主義の再建のために」掲載
      12日 講演「私たちの憲法感覚」(@「民主政治を守る講演会)
 *『思想の科学』6月号・特集<見のがされている農本主義>で橘孝三郎と対談「ある農本主義者の回想と意見」
    7月7日 「なぜ勝利というか」脱稿
    7月24日 思想の科学研究階層で報告(「5・19前後の大衆運動をどう見るか」)

レジュメの8章の前半部分を引用しましたが、原資料に当たりたい方は当たって下さい。
このレジュメで中島が一番、重要視していて竹内の発言に疑問を持ったのが、5月*に行われた『新日本文学』5月号の座談会で、収録は3月17日なのです。まさに安保闘争のただ中にありながら、「これで民主主義は終わった、決断の時である」と言ったアナーキー?な懸念を竹内は何故、示さなければならなかったのか、その前後の文脈、その場の会の状況、など、鶴見俊輔の当事者としてこの座談会に参加しているから、竹内の真意を鶴見さんから見てどう思うかと質問があって、鶴見さんが答えるところがあったのですが、そのような竹内のアンビバレンス気持ちの吐露は、竹内には時としてあったみたい。別段、レトリックを駆使してというものではなくて、酒好きな竹内が酔いの状況で言ってしまったというようなことでもあったかどうか、時々、酔っぱらってもの凄くアナーキーなことを言うことがあったみたいですねぇ。そんなエピソードを二、三、鶴見さんは好感を持って披露してくれましたが、でも、それは半ば本音でもあるわけですよ、だから、多分、大澤真幸や、鶴見俊輔は「文学者としての竹内好」に関心をもったのだと思う。魯迅のわからなさと共通のところがあるのではないか。むしろ、強行採決をされることを望んでいたんではないかとも読めとれなくはない。
この項続く