チョムスキーはホワイトナイト?

チョムスキー 9.11 Power and Terror [DVD]

チョムスキー 9.11 Power and Terror [DVD]

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本棚の整理をしていたら、DVD『チョムスキー9・11』があったので、視聴したら、チョムスキーのあまりにも明晰さに圧倒されたが、少なくとも、映画『ダークナイト』のジョーカー(ヒース・レジャー)の怪物ぶりをあぶり出したでしょう。ブッシュ大統領はでも、バットマンだったと思う。バットマン・ブッシュは自分自身が「ジョーカーはオレでもあるんだ」という悩みがなかったオポチュニストだったと思う。そんな悩める人なら、チョムスキーの言葉が理解できるた思うが、多分、無理だろう。
しかし、ひょっとしてそんな事は自明のこととして理解して、でも、ブッシュはそもそも端から、「バットマンではなく、オレはジョーカーだ」と覚悟を決めて行動していたかもしれない。
チョムスキー9・11』の映画の後半で、彼はイスラエル、トルコについて話す。

紛争や脅威の下では権力者はあらゆる手段に訴えようとします。残忍な戦争犯罪であれ、非人間的な行為であれ、君主アメリカが黙認し支持奨励する限り何でもやります。
アメリカが“もういい”と言えばやめます。
批判は結局アメリカにはね返ってくるのです。
他人が犯した犯罪を批判するのはたやすく軽率でときには恥ずべきことです。
鏡をのぞく方が重要ではるかにむずかしい。
我々も犯罪に荷担しているのです。……さまざまなレベルでね。ー字幕翻訳:松本薫ジャン・ユンカーマン

ダークナイト』では、希望を孕んだシーンがありましたね。ネタバレになるので、その処方箋を紹介しないが、ハマスがどうあろうと、自らが負の連鎖を断ちきる決断をするしかない。それがイスラエルの「生きる道」でしょう。ガザからの軍の撤退を画策したオルメルトも結局は空爆をやめなかった。
id:noharraさんのところから孫引用ですが、このテキストを読むと、かような「生きるのが楽しい」連鎖ではなく、むしろ、お互いの国民、民族、人々が何故、「生きるのが苦しい」選択をあえてして、「苦痛の連鎖」の渦に巻き込まれるのか、誰が真の悪人なのか、誰に対して真実を語り、説得すれば、問題解決が図られるのか。

たいていのイスラエル人たちはなんらかのかたちの正常さを得たいと思い、エフード・オルメルト首相の言うところの「生きるのが楽しい」社会になることを望んでいる。だが、(1948年の建国以来)60年も繰り返される大虐殺のどこに「楽しさ」などあろうか?
 そのうちの過去40年間(1967年の第三次中東戦争による西岸・ガザ地区の占領から)、イスラエルは組織的に他民族(パレスチナ人)を踏みにじり続け、占領の終了を拒絶してきた。パレスチナ人たちはあらゆる権利を失ってきた。彼らの生活は、ユダヤ人入植者たちによるポグロム(大虐殺)と、イスラエル軍によるバリケードや封鎖や隔離壁と、そして過酷な貧困のまっただ中に置かれてきたのだ。オルメルトは、「東エルサレムを含むすべての占領地から撤退する以外にイスラエルには選択肢はないだろう」と発言した(が、それは彼が政界引退をすることが明確になった後になってのことだった)。もしこれがオルメルトの真のポジションであるとすれば、彼はそれまでの任期を空疎なおしゃべりに費やしてきたことになる。しかし、実際の行動において、イスラエルのポジションはその正反対だ。撤退などしないし、自ら違法と認めているアウトポスト(前哨入植地)でさえ撤去しないし、ほとんどの入植者はそのまま住みつづけ、軍隊が境界線(国境)を支配しつづけ、そして ガザ地区は絶望の淵へ沈みつづけている。 (ヤコブ・ベン=エフラート)
http://palestine-heiwa.org/news/200901030223.htm

避難住民を乗せて二隻の船が岸壁を離れる。ジョーカーの投げた最後のカードに賭けるのは結局住民自身の決断なのです。
相手の船を破壊しても生き残りを図るか、ガザを廃墟にしても、「生きるのが楽しい社会」を作り上げることを本当にイスラエルの人々は信じているのか、ナチズムの教訓はなんだったのか、ジョーカーはそのことを突きつけているとも言える。
竹内好は『魯迅』で、魯迅の作品からこんな引用をしている。

「暴君治下の人民は、多くの暴君より更に暴君である。暴君の暴政は、しばしば暴君治下の人民の欲望を満足させることさえ出来ない。
 中国のことは云うまい、外国の例を挙げよう。小事件では、ゴオゴリの戯曲『検索官』がある。人々はそれを禁止したが、逆にツァーは開演を許した。大事件では、執政官はキリストを釈放しようとしたのに、人々は彼を十字架に上すべく要求した。
 暴君の人民は、ただ暴政が他人の頭上に暴れるのを希望し、自身は、眺めて面白がり、『残酷』をもって娯楽とし、慰安とする。」(『随感録』六十五、民国七年)

孫引用したが、かような暴君の人民は過去の遺物と信じたい。チョムスキーの楽観は、少なくとも100年、200年前と比べると、事態はよくなっているとの認識がある。だからこそ、『ダークナイト』の船の最後の顛末で、希望を見るわけだが、その希望をリアリティを持って感応するほど、僕らは僕らを信じていいと思う。暴力に対抗するには「徹底した信」しかない。