渋谷から京都

思想としての東京―近代文学史論ノート (講談社文芸文庫)

思想としての東京―近代文学史論ノート (講談社文芸文庫)

僕の古い記事「セゾン文化」とはなんだったんだろう、」トラックバックされて、そう言えばコメント欄は凍結されていたんだと、気が付いて、トラックバックして下さった「Studio+1」を訪問したら、改めて渋谷の街の記憶が刺激されましたが、今の僕にとって、「渋谷は遠くなりにけり」って言う感じです。アップされている画像が北田暁大の『広告都市・東京』であったが、藤原新也の『渋谷』も面白かったですよ。僕のbk1拙レビューにはその面白さが伝わっていないけれどね。今は京都の町が身近でもあるわけなのですが、京都と渋谷を比較すると面白いかもしれない。
参照:<ぼく>と「渋谷」 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」
昨日、ユリイカの特集「終末論」の高山宏×種村季弘の対話を紹介したが、お二人はこのあたりの問題を論じている。

種村 […]日本は、ヨーロッパ的ないいものも持っている、つまり街の記憶もあるのに、このところ無理にアメリカ風に商品流通の速度で記憶を流通させているうちにバブルになってそれがはじけた。アメリカはもともと根本的に荒野のバラックだから、道の流通でやっていくほかはない。だから結局ワールドブルグもエラノス会議もアメリカには入っていかないんだよね。街の記憶はもう構造化されているもので、それがどうもアメリカには入っていかない。新しい国だから無理はないよね。
高山 街の記憶術ということなら、そもそもワシントンDCという街を作ったピエール・ランファン少佐は、ヨーロッパ伝統の記憶劇場を一国の首都にしようと試みたらしいです。札幌とか京都みたいに「○○上がる」「下がる」だけでどこでも行き着けるような、「アドレス」というデジタル概念にとてもこだわった街です。それはアメリカ人にとっては大変馴染みにくい図面だったらしい。ランファンはフランス系でブレーやルドゥーの系譜、フランス革命の時からそういう実験をやっていたところらしい。(p70)

磯田光一の『人工庭園の秩序』を持っていたのに、棚にない。書影もない。この本もいつの間にか処分していた。記憶を巡る磯田光一の都市論も面白いよね。

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

僕が京都が好きなのは車がなくとも不自由しないからね。歩いても歩いても退屈しない街です。郊外はそうは行かない。国道一号線の近くに住んでいるのですが、チャリンコでも国道に近づかないようにしている。