Webクリエイター/納棺師

[rakuten:book:13100839:image]おくりびと [ 本木雅弘 ][rakuten:book:13069424:image]
 映画「おくりびと」がオスカー受賞なんですね。オメデトウ!
 この映画は上映された時にすぐに観たし、老母の友達にもすすめて、とても評判が良かった。
 映画に触発されて「納棺師という「お仕事」 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」」という記事をかって書きましたが、「納棺師というお仕事」はまだまだ、わからないところが多い。かって伊丹十三が『お葬式』で映画監督として華々しくデビューし、大ヒットしたが、このような映画は普遍性があり意外と求められているかもしれない。『おくりびと』がShinyatalkで取り上げられたのは去年の9月であったが、藤原新也の『メメント・モリ』の改訂版も発刊されたんだよね。
 日曜日、偶然にもタモリの「エチカの鏡」を始めて見たら、かっての売れっ子広告カメラマン(能津喜代房さん)が遺影写真家にトラバーユした面白いドキュメントがありました。デジタルカメラが普及し能津さんの職人技は時代遅れとなり、仕事は激減した。
 そんな時、近親者の死に目に会い、遺影の写真を捜したが生前の故人を彷彿される一葉の遺影写真がない。
そこで、彼は意を決して、故郷のご両親の表情豊かな遺影写真を撮る。彼は新しい道を見つけたのです。
そして、去年、貯金をはたき遺影専門の写真館を立ち上げる。その仕事ぶりはお客様との30分の会話でもっともその人らしい仕草、所作、表情を捉まえて写真を撮る。それで、一枚、3800円だと言うことです。僕も撮ってもらいたくなりました。
 様々なお仕事があるんだと思う。去年、「納棺師」がらみの記事を書いて以来、毎日、「納棺師」で検索して僕のブログを訪問して下さる方々がいらっしゃる。映画の中の台詞で納棺師の給料が新人でも月五十万円みたいなことを言っていましたが、実際はそうではないみたいですねぇ。ただ、色んな納棺師がいらっしゃるから、一概には言えないと思う。
 今日、曽根朗著『Webクリエイターになる!?』という就活の本のbk1書評を書きましたが、遺影写真家能津さんがデジタルのIT化に波に呑まれて、最早アナログとしての商業写真家の居場所がなくなっていったと言うことでもある。CM写真はWebクリエイターの一分野に過ぎなくなったのでしょう。
 だけど、一方で、メメント・モリにアクセスしたお仕事が脚光を浴びるということは、何か嬉しくなります。
隔月誌『オルタ 特集恐慌前夜』で廣瀬純の講義録『日常生活=運動ーー三つの移行から』が掲載されている。

 昔は、貯金は箪笥にしまうとか、郵便局に預けるとかしていた。ところが今は「お金は銀行に預けるな」とか何とか、大切なお金を眠らせておいてどうするんだと脅しをかけて、お金は全部、金融市場に動員させます、そして働かせますと。今や、僕たちは、一人残らず、すべての企業のために休むことなくタダ働きを続ける労働者みたいなもんです。日常生活がそのように変質したんだったら、日常生活そのものが運動になる、そうじゃなくちゃおかしいですよね。
 もう少し言っておくと、僕個人はね、「生活を守るとか「反貧困」とかそういう語り方じゃ駄目だと思うんですよ。雨宮処凛さんの「生きさせろ」とか、本当はぼくと同じことが言いたいのかも知れないけど(本人もそうだって言ってたけど)、「生きさせろ」なんてこと自体はどうでもいいんですよ、はっきり言って。生存なんて闘争には値しない。そんなのカブトムシとか、ゴキブリとかに任せておけばそれで十分なんです。
 日常生活と運動が重なり合って同じものになりつつあるときに重要なのは、今言ったような再生産の場の防衛みたいなことじゃなくて、かって労働の世界にあった生産や創造が日常生活の只中に入り込むっていうことです。別に中南米のスタイルを真似た闘争みたいなものをやる必要なんか全然ない。日本で僕たちができることを考えていけばいい。いずれにせよ、生活そのものが芸術で、どこまで生きること自体をクリエイティブな方へ持っていけるかが重要。それが生活=運動ということだと思います。(p25)

 どのようなお仕事であろうと、生活そのものが芸術で、どこまで生きること自体をクリエイティブな方へ持っていけるかが重要。映画の納棺師はかってチェリストであったが、納棺師という作法の所作がより以上の美しい音色を奏でる。ベネズエラの若者たちの音楽は何故、こんなに素晴らしいのか、ベネズエラ・ユースオケの面々の表情の豊かさに驚く。貧しい若者たちはゴキブリではないのです。確かにその通りなのです。そんなパラダイスをジジィだって夢見る。
 でも、ある人が言っていたように、グローバルな労働市場は、「人件費」として計上されるのではなく、「部品仕入費」とか「研究費」とかでカウントされる実態があるわけですよ。「人間」であることが、それを守ることによって、自動的に「モノ」として扱われるもの(別のヒト)を生み出すことがある。だからこそ、居直って、人間達を引きずり落として、「ゴキブリの共有」(不幸の共有)に戦いの道を模索する若者が現れたってフシギではない。