小泉義之vs郡司ペキオ−幸夫

別冊「本」RATIO 01号(ラチオ)

別冊「本」RATIO 01号(ラチオ)

先月アップしたリクエストのなかったリサイクル本を整理しながら、再読などしているのですが、『RATIO 01号』の郡司ペキオ−幸夫vs.小泉義之の『物語をやめよ!=「生きる」ことの哲学を構想する』(p262)は、半分以上、話についていけないのですが、言っていることがひっかかるし、面白いんだよね。何が面白いのかと、説明さえ出来ないのですが、章立てのタイトルだけでも考え続けるヒントとしてメモしておきます。
(1)インクのないボールペンで書く。(2)オートポイエーシスが見失ったもの。(3)質料と夢と糊。(4)クオリアとは何か。(5)物語からキャラクターへ。

小泉 人生全体は見渡せない。
郡司 人生とはこれこれのものであるという説明ほど、陳腐でつまらないものはないでしょう。だけど、今は、歴史にしても進化にしても、物語ることが唯一の説明であるみたいになっているではないですか。だけど、生きるということを言われたときに、この今をどう生きるか、それに肉迫するような考え方をしたい。
小泉 だけど、そこで起こっていることについては、結局ある種の理論とか説明を提出しているわけですよね、郡司さんといえども。
郡司 そうですね。たとえば自由とか選択といったときには、いくつかの選択肢があって、能動的に選んでいるというふうに考えてしまいますけれども、実際には自分で能動的に選んでいるのか受動的に選ばされているのか、どちらだかわからないままに生きている。それはものすごく実感していて、自分の人生の中で今まで選択したり悩んだことが本当にあったのかという気がするのです。そのくらい選択というものは、生に内在し、一体化している。このとき、物語としての人生とはこれこれのものであるという言い方は、不断の選択を無視して時間をならしてしまう。夢とか質料に定位するというのは、この現場における今の生、そのつど実現される選択を白日のもとに曝して(そうでないと私のように選択は自覚されない)、選択=生の実相に使える道具を提示することです。質料という道具は、不在を存在とする糊であるとか、中に何かを書き込める点だとか、不合理だと思っていたものを貼り付けられる直感とか夢とか、そういうものになる。それで、生きるということを理解した気になれるわけです。(p275)

質料とはキャラクターと同質の概念に近いものがあるらしい。しかし、『RATIO』は06号まで発刊されたんですね。創刊号しか買っていなかった。他の号も読みたくなりました。

ラチオ06号

ラチオ06号