相国寺連続講演一回目の(4)

【東】から(http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20090312/p1の続き)
(1)孔子ー「正名」=名を正そうとする。→仁・義・礼(価値)⇒君主制
(2)老子荘子ー「狂言」=了解不可能性がある。(不安定なもの)→TAO(道)=言葉は狂っている。TAOを加えなければいけない。
「日本」:最初は無文字化社会、語り部、枕詞、かかりことば、中国から漢字(言霊を漢字=万葉かな)、音/訓
平安神宮京都御所の対比
平安神宮の中国風、朱、瓦葺、朝の祭、はれ、/京都御所の和風、素木(白木)、桧皮葺、夜、け、
『和漢朗詠集』の大切さを松岡は言及する。
中国にあっては、税の徴収にしろ、貨幣(唐銭、宗銭)が流通していたが、日本においては和銅開宝が鋳造されたが、殆ど流通しなかった。
例えば、東国では銀決済で、布、馬が税の徴収にあてられた。西国では、金決済、石高による。そのようなダブルスタンダードにこの国の長所を松岡は見る。神仏混合、(1)幕府、(2)天皇
だけど、明治維新から廃仏棄釈のような運動が突如として起ったのではなく、徳川社会(バックス・トクガワ)の250年で日本古来のリアルスタンダードでないものを徐々に採用しようとした動きがあった。古文辞学、古学。
(1)他国母型(祖型)モデル→恭夏主義
(2)自国自立モデル→熊沢蕃山の水土論
(3)中華日本モデル(日本中心主義)→中国皇帝=天皇を採用。山崎闇斎
参照:http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0796.html
国産オープンドアの受け皿が徐々に形成されつつあった。アメリカスタンダードの黒船の到来が多少早すぎた感があったけれど、そんなに驚天動地の出来事ではなかったのではないか。
そのようなスタンダードの核(国体)として天皇による立憲君主制が稼働していたが、戦後、天皇人間宣言をする。
中心のない相対化された基盤でリスクヘッジは可能なのか、そのことについて、二回目の相国寺連続講演で松岡さんは話すとのことです。
というようなことを「グローバリズムと日本(4)」でここまで書いたら、セイゴウちゃんねるで、連続講演の一回目の講演要旨が更新アップされていることに気が付きました。ということで後半部分を引用させてもらいます。

このモデルは250年にわたって有効だったかのように見えたが、幕末になると黒船が到来し、日本は列強の勢いにおされるまま開国してしまう。それからは、次々に海外の基準を取り入れ、将来的な方針の建て直しをはかる間もなく、殖産興業・有司専制神仏分離立憲君主制というふうに、近代化をどんどん進めていった。このとき、日本人は、それまで日本が持ってきたはずの特有の普遍知や価値をまったく見失ってしまったのではないか。
 結局、明治以降、何一つ軌道修正できないまま戦争をし、負けて、戦後の民主主義時代に突入し、さらに変動相場制による資本自由化を受入れ、新自由主義政策をいやおうなく投入され、いまやグローバル・キャピタリズム金融危機に完全に支配されるにいたった。
 そもそも、生活や社会にはリスクがつきものである。そのリスクを市場で売買したり、徹底監視するような経済や社会受け入れては絶対いけない。人間にとって最大のリスクは病気や事故や死である。あるいは、淋しさや嗚咽や失恋や失敗や倒産や解雇やスランプもリスクである。残念ながらそういったリスクを完全に排除することは不可能である。しかし、それらを直視することこそが重要なのである。宗教や哲学や芸術は、そのようなリスクに立ち向かう精神から生まれてきたものだ。
 ところが、現代社会はあらゆるリスクに価格を付け、証券取引化して売買するという方法によって、本来人間が抱えるべきリスクの意味を隠してしまった。これは大きな間違いなのではないか。人間にとってのあらゆるリスクをあらためて考え直すことから、世界知と共同知と個別知の関係を組立なおす必要があるのではないか。ーセイゴオちゃんねる – 松岡正剛事務所 – 松岡正剛事務所ーより