本田由紀/見殺しにしつつ自らの首を絞める「正」と「非正」のパラドキシカルな関係週刊朝日緊急増刊 朝日ジャーナル [雑誌]出版社/メーカー: 朝日新聞出版発売日: 2009/04/14メディア: 雑誌購入: 2人 クリック: 13回この商品を含むブログ (22件) を見る

kuriyamakouji2009-04-25

◆いざとなれば企業にすがらないでも生きてゆきうる余地
週刊朝日緊急増刊「朝日ジャーナル創刊50年 怒りの復活」を読みました。掲載されている本田由紀さんの論文が具体的で確かに「未来への処方箋」としては「使える」と思いました。
この程度のことが出来得なければ未来は暗澹たるものでしょう。イデオロギーは関係ない。保守であれ、革新であれ、右、左であれ、どのような政党であれ、採用できる実行可能性のある処方箋だと思う。

「日本的雇用」がいまだ相対的にあてはまる正社員と、その外部にある非正社員との間には、パラドキシカルな関係がある。それは、前者の維持のためのバッファーとして後者が必要とされているが、後者の存在と増大が前者を掘り崩し、下方に牽引しているということだ。(略)正社員は自分たちの雇用を守るために非正社員を見殺しにしつつ、実は自分たちの首を絞めているというわけだ。自分たちだけが助かればいいというエゴイスティックな線引きが、実際には自分たちを脅かすことになっていることについての認識は希薄である。そんなことを続けていても仕方がないと、もういい加減に気がつくべきだ。
ではいったいどうすればいいのか?「日本的雇用」に大半の労働者が包摂されるべきだという牧歌的な想定は、先述のように反実仮想にすぎない。そんな幻想を追いかけている間に、現実はますます悪化してゆく。企業に助成金を注いで「日本的雇用」を延命させるという策も、解決にならない。「日本的雇用」そのものが、牧歌的とは程遠い苛烈な性格を色濃く持っていたことを、しっかりと頭に刻む込むべきだ。企業にしかすがるものがないという状態は、すがりうる正社員にとっては企業が生殺与奪の力を握ることを意味し
すがれない非正社員にとっては真空に放り出されることを意味する。「いざとなれば企業にすがらないでも生きてゆきうる余地」を正社員・非正社員のいずれにとっても増大指せることによってのみ、働く者は働き方の選択や雇う側に対抗する力を手にしうる。非正社員を「餓死への恐怖」から解放すること、そして正社員を「餓死への恐怖に陥ることへの恐怖」から解放することが不可欠なのだ。(p119)

咋日から、大阪天満橋エルおおさか9階ギャラリーで、『働く人々の歴史展』が始まっていますが、労働組合運動史という側面だけではなく「考現学」という生活史という文脈で「働く」ということを考える切っ掛けになればいいですね。アンペイドな家事労働、対価のない社会労働、企業、組合から外へつながる場へ「働く」を伸ばして考える。そのことが「いざとなれば企業にすがらないでも生きてゆきうる余地」の回路を開く。
http://d.hatena.ne.jp/l-library/20090424/1237290307

 その「いざとなれば企業にすがらないでも生きてゆきうる余地」の中核ををなすのは、住居・教育訓練・医療など生活にとっての最も基礎的な土台が、雇用状態のいかんを問わず普遍的に、低廉な個別負担により供給されることである。特に雇用・労働が不全な状態にある者――非正社員や失業者・無業者――が、とりあえずの生活や住居の保障を、十全な労働市場への再参入を助ける制度・機会を得られることが何よりも必要である。再参入のための制度・機会の重要な構成要素となるのは教育訓練だが、現在の働く者の多くは自分の職業能力を伸長し自律的な職業経路をたどりたいという希望を強く持っているにもかかわらず、企業以外にそうした場がほとんど存在しないため、やはりパラドキシカルにも企業に依存せざるをえなくなっているということを示す研究成果もある。それならば、企業以外に教育訓練の制度・機会を育てる必要があることは明白だ。これまでそのような意味では総じて機能してこなかった学校教育もまた、それが制度として持つ限界の範囲内で可能な限り、人々を仕事の世界に向けて備えさせる役割を担うべきである。(p120)

 僕の経験でも学校を卒業して就職した驚きはセミナーの多さであった。でも、そこにある種の選別が働いて、ピックアップされた社員は様々な講習、研修が集中的になされる。
 正社員/非正社員の分断線ではなく、非正社員であっても正社員に登用されるどころか、将来の幹部社員としてオーナー自らがリクルートする場合もある。
 特に中小企業の場合は顕著で、要は「この事業に賭ける仲間」をオーナーは欲しているわけです。
 僕が最初に就職した中小企業でもらった自己啓発書が『遅刻結構、欠勤良し』というようなタイトルの本だった記憶があります。結局、会社は売上げが上がらなければどうしようもない。一番、欲しい人材は営業の出来る人でしょう。正社員、非正社員は関係ない。本屋の店頭で、様々なパフォーマンス、棚つくりもし、売上げに貢献してくれる人材は、例え、学生アルバイトであろうとも、オーナー自らリクルートする。
 本田さんの論考は僕自身が体験した中小企業とは多少違いがあるが、そしてグローバル化の中で本屋一つにしたところで街の本屋さんは消え、ナショナルチェーンだけが残り、そのような牧歌的、「日本的雇用」による職業訓練は組織人としてのマニュアル教育になる。ただ、そのような企業内マニュアル教育はグローバル化の中では初期では通用したけれど最早通用しなくなり、組織を離れても通用するような「ハイパーメリトクラシー」が要請されるわけです。本田の言う「ハイパーメリトクラシー」はハードルの高い能力で、そのような能力を身に着けた職業人って僕は失格でしょう。

まずは地域単位や特定の産業分野単位で、自治体・教育訓練機関・労働組合・企業などの諸主体の連携のもとに、個人が教育訓練を通じて取得した具体的な能力を正当に評価し雇用や処遇に反映させる「キャリアの梯子」を、地道に組み立ててゆく必要がある。
 また、企業以外に所属する場・集団・組織を個人が持てることも重要だ。たとえば、個々の企業を横断し、かつ非正社員と正社員の区別をも横断する、産業別ないし職種別の労働組合や、相互支援的なNPOなどである。そうした集団性なくして、働く者が雇う側との間に力の均衡を保つことが不可能であるのはいうまでもない。
 規制緩和・自由化・流動化論者はしばしば、働く者を守るためのこうした「余地」や所属する場を鍛えることなく、すがりつく正社員の手を振り払って企業にさらなる自由を与えようとする。そのあとに残るのはただ恐怖ばかりだ。またここでの主張は、企業の放恣を容認し、その結果として生み出される害悪や悲惨を、すべての社会福祉によって補おうとすることでもない。企業の放恣を抑制し、適正な雇用と働き方をつくり出す責任をきちんと果たせるために、働く者にとっての恐怖を薄くし、交渉のための力を得てもらうことの必要を述べているのだ。(p120)

 湯浅誠が言う「溜め」(タメ)なのでしょう。それが「余地」であり、金銭的なタメは社会制度として構築が可能であり、教育制度もシステム化は難しいけれど、出来る限り二階部分はともかく一階部分に関しては、年金、医療も含めて「無惨な死への恐怖」からの解放させるシステムつくり、それが政治の仕事であることは間違いない。
 二階部分に関しては民間に任せればいい。さっき、又、アリコから営業の電話があったが、早くアメリカで国民皆健康保険が完備すればいいねぇ。アリコのような民間の保険会社もそのようなオバマの政策を支持すべきだよっ言ってあげた。一階部分のベーシックインフラの生活完備を積極的に民間であれ、ロビー活動して、そのかわり二階部分は「民間にお任せあれ!」とどんどん規制緩和すればいい。そんな、政治と民間の棲み分けが大事だと思う。