「死生学の諸問題」

保坂和志さんの掲示保板から情報を得たのですが、昨日、東大の本郷キャンパスで参加自由の講演があったんですね。
「平成21年度死生学演習/臨床死生学・倫理学研究会」で、死生について色んな講師が通年で講義する。

担当:清水哲郎山崎浩司東京大学大学院人文社会系研究科上廣死生学講座)
曜日・時限:木・5-6
場所:215教室(東京大学本郷キャンパス法文1号館)
(06月18日応用倫理研究3 保坂和志世界を肯定する思想―小説という方法から)
06月25日第4回林千章「出生前診断をめぐる日本の女性運動と障害者運動の
“対立”を解きほぐすために」
(07月02日応用倫理研究3 川本隆史「普遍的な価値理念」と「いのちへの遠慮」)
07月09日第5回戸田聡一郎「意識障害患者における痛み刺激実験の現状と展望」
<冬学期>
(10月08日応用倫理研究3 中川恵一がんと死生観)

詳細はこちらです。
◆ところで、中川恵一さんの毎日新聞連載記事『がんから死生をみつめる』は愛読していますが、<臓器移植法改正>15歳未満も臓器提供…A案、衆院で可決されましたね。
中川さんの最新の記事『心臓停止と臓器の死』で書かれている最低限の知識を了解した上で議論を尽くして欲しいと思います。
前日の京大シンポのエントリーの最後の質問で脳死について森岡正博さんに訊くのはまだしも、脳科学者の茂木さんに脳死について問いただし、それで、茂木さんは何故、オレにそんな質問をするのかと怒っていたが、まさに、この問題はそれぞれの死生観が問われるのであって、まず問うならば、自分自身の死生観を問う実存的な戦いがまずなされなけれならないと思う。

多細胞生物の死には、個々の細胞の死と、個体としての死があります。毛が抜ける、皮膚の細胞が垢(あか)になるなど、からだを作る約60兆個の細胞の1%程度が毎日死んでいると言われています。しかし、個々の細胞が死んでも、私たちは、それが一人一人の個体の死を意味するとは考えません。
 逆に、個体が「死んだ」からといって、その瞬間にすべての細胞が死ぬわけではありません。毎日1%の細胞が死んでいる「日常」から、全身すべての細胞が死にたえる瞬間まで、段階があるのです。「死」は、そのどこかの段階にあることになります。個体が死ぬ瞬間を、厳密に決めることは難しいのです。
 脳は体重の2%の重さしかありませんが、酸素を20%も消費します。このため、心臓の拍動が止まると酸素不足になり、神経細胞がすぐ死に始めます。心臓、肝臓、肺、小腸といった臓器の細胞も心臓が止まると、すぐに死にます。これらの臓器が、心臓の停止後には移植できない理由です。心臓は動いている「脳死」の提供者(ドナー)から移植するしかないのです。
 これに対し、腎臓は酸素不足にやや強く、心臓停止後1時間以内であれば移植できます。角膜はもっと長く生存でき、心臓停止後約10時間まで移植が可能です。個々の臓器や細胞が死ぬ時間は、まちまちなのです。ーhttp://mainichi.jp/select/science/news/20090616ddm013070147000c.htmlよりー

 「死生観」と「制度で定められた死」(法律上の死)とは別ものなんでしょう。そのあたりをごっちゃごっちゃにしない議論がなされればいいですね。
 さて、参議院でどんなやりとりをするのか。