松岡正剛の編集力/「あいだ」について(1)


昨日の相国寺での松岡正剛講演の備忘録メモを書いてみます。
まずは、編集力/「あいだ」について。
僕はネットで「作家マップ」のようなツールが出来て、これはオモロイ!と期待したが
実際、知っている作家をクリックしてマップを見ると、あまりにも明後日(あさって)の相関図なので、途方に暮れることが多い。
僕の想像力の範囲内の思いもよらぬジャンプ、相関なら、そうか、こういう視点で見ることが出来るんだと新しい発見なりサプライズがあるのですが、そういう面白さのノリがあまりにもなさ過ぎる。
それは、多分、ネット上での翻訳機能にも言えることで、そこには次元の違う不可能性があるのではないかとつくづく思う。
講演での松岡さんの比喩で言えば、こうやって手を伸ばしてペットボトルを取り、コップに水を入れ替えて飲む。ハンコを押す行為。それを松岡さんは編集力と言うのですが、僕は、あえて「アフォーダンス」という言い方をしていますが、翻訳力/編集力/アフォーダンスは「あいだ」の力だと思うのです。
グローバリズム、管理社会で何が問題かと言うと、この「あいだ」の力の摩滅だと思う。もし「自己責任論」を言うならば、思考停止をしてシステムにすべて委ねる装置(環境)を肯定する物語を受容する人に限ってシステム内でそれなりの既得権益を与えられているから結果として「自己責任論」を語る捻れがあると思うのです。
もし、自己責任論を語るなら絶え間ない基底(分母)の更新=ハードウェア(システム)と、枝(分子)=編集工学の力を仕込む営為が常に往還する作業の中でしか、自己責任の「あわれ」、「あっぱれ」は生まれない。
一昨日、国立京都博物館で、特別展覧会「シルクロード文字を辿って」を拝見したが、目眩するほど圧倒されました。実際、暑さも加わって博物館前で座り込んで学芸員の方達に「大丈夫ですか?」と再三、声かけしてもらい、恐縮したのですw。
しかし、ウィグル文字、西夏文字、漢字、カローシュティー文字、ソグド文字、サンスクリット文字などのテキストを見ると、まさにそこにあるのは世界を知ろうとする圧倒的な編集力です。
単なるロボット翻訳ツール、自動化して作家マップを作ったところで、御霊、生きたものの往還がない。
祇園祭の鉾ほどの価値もない。今日は祇園さんです。松岡さんの講演の前半は祇園祭りについて語り編集力につなげたのです。要は何でも可視化しようとすると、倉庫に保管して一丁上がりとなって、思考停止の装置で無痛文明の揺りかごにまどうというわけでしょうか。
この項続く