ひばりエピソード

ひばり伝
昨日、社会見学で神戸の南京町、元町、「人と防災未来センター」に行ってきたのですが、偶々道中で、町内会会長が東映で働いていたことがあるのを思い出し、訊くと生まれが美空ひばりと同じ昭和12年なのです。齋藤愼爾の『ひばり伝』では触れていないエピソードを聴くことが出来ました。
特に弟たちの京都での傍若無人振りは半端ではなかったんですね。京都市中をサンダーバードでぶっ飛ばしたらしい。当然、色々あって、そういうときは、田岡さんの組がお出ましということになる。
撮影の時にも母・喜美枝が傍を離れず、撮影のスタッフに年上であろうと、同年であろうと、「美空先生」と呼べと強要したらしい。当時の東映でひばりの出演料が一番高かった。
昭和14年生まれの齋藤愼爾満州を引き揚げ、山形県酒田市の飛島に移り住んで『悲しき口笛』、『私は街の子』、『越後獅子の唄』に出会った衝撃を語り、あとがきでこう記す。

そして何より美空ひばりさん。あなたのお陰で孤島の少年Sは辛うじて生きてきました。あなたは誇り高いプライドのひとでした。プライドとは(と太宰治は言っています)「あのことにも、このことにも自分は誰よりも苦しんだ、とひそやかに言える自負」と。もしお会いしても、私は頑固頑迷、それに恍惚人ですから、決して?お嬢?なんて呼ばないでしょう。?姉御?ぐらいは言ったかもしれませんが。p454

本書のこだわりと言えば、『柔』、『川の流れのように』に対して違和感を持っていることでしょう。『柔』は1965年で東京オリンピックの翌年です。これ以降の美空ひばりに作者は共振していない。