ヨコハマメリー/須藤泰造

平岡正明の『ヨコハマ淨夜』を読んでいたらハマのメリーさんに会いたくなって、youtubeを検索したら、去年、動画がアップされていたんですね。
そして、僕の記憶のズレに思い当たった。僕が知っていたメリーさんは、1970年代で多分、40代か50代で、僕が働いていた関内の本屋にお客さんとして良く来てくれた。とても丁寧な物腰で文庫など買ってくれたのですが、背中もこの映画のように曲がってもいなく、むしろ背筋がピンと伸びて堂々としていた。顔は白塗りではなかった。肌はテカテカしていたが、とにかく古雅な日本語っていうのか、高音の典雅なしゃべり、僕はてっきり山の手の奥様だと思ったのです。そのことを常連の元町のダンナに言うと笑われました。
彼女は日本人を相手にしない「ラシャめん(洋娼)」だと言われた。それから、メリーさんのことが気になっていたのですが、本好きの気品ある佇まいは近寄りがたいものがあったけれど、惹かれましたねぇw。
だから、この映画に登場するメリーさんと僕の知っているメリーさんのズレが埋まらなかったのですが、平岡がこんなことを書いていた。1983年2月5日、横浜で中学生による「浮浪者狩り」があって、その年60歳の須藤泰造という寿町のドヤ街の住人だった人物が山下公園で十人の中学生に襲われて殺された。(p41)
僕はもうこの頃は横浜を離れ東京に出ていたので、1983年以降のメリーさんについて知らなかったのですが、東京時代、週刊誌などで、メリーさんの記事をよく見るような現象が起こるようになった。懐かしい気分があったが、多少の違和感がありました。その謎の一端が本書で氷解したところがある。平岡が言うようにこの襲撃事件以降、メリーさんは仮面をかぶった強固な匿名性による虚構化を図ったのか。そのような仮説はまんざら当たらなくはないと思う。

それはまた港のメリーが、赤い靴と白い服。、暗黒舞踏手のように白塗りし、パラソルを持ち、客船時代にメリケン波止場に彼女が船客をむかえに出た頃のイメージを再現し、決まった時刻に馬車道を散歩して鉄の橋(吉田橋)の彼方に去る港町最後の洋娼「メリー」という幻想を鎧うことによってガキの襲撃を防いだこととも等価である。/須藤泰造のケースでは、本名と顔写真をマスコミに出してしまうという人のよさがガキどもの暴力を誘発させたのではないか。肴はあぶったイカでいい。乞食は無口なほうがいい、ってね、口をきかないことが自己防衛の第一歩であり、かつディスコミュニケーションこそがディープな思想の発想地点のはずだ。佐江衆一『横浜ストリートライフ』を読むと、須藤泰造が人肌を恋しがるタイプの好人物であり、はじめ寿町の住人だったが、寄せ場労働者としてやってゆく体力と気力も乏しくなって寿を出て、山下公園横浜公園とさまよう路上生活をして犠牲者になったことがわかる。下りる、ということを容認しない日本社会の滅私奉公型組織論の島国根性が俺は憎く、下りるということを裏切りと同一視する陰険さは日本社会がプロ戦闘集団を生まなかったからだろうが(だから幕末もどんじりの文久年間に、清水二十八人衆を創出した次郎長のヤクザの天才と、新撰組行動規律を創出した土方歳三の先見性はしかるべく評価に値するが)、裏切りものは容赦しない、下りる者は放してやれ、どうしてこんな簡単なことがわれわれはできないのか。(p45)




下りる者は放してやれ!