十字架のないXXXX

「教会の」外でXXXXに出会っていく―そういう感触を受けてゆくのでした。時にはやはり単に「いかがわしい」現実に目眩ましを受けながら。

あるところで、ある人がかようなコメントをし、別のある人が反応して故田中小実昌について書いた。何やらすごく腑に落ちるところがあった。
XXXXについて触発されて色々考えていると、6年前にbk1保坂和志の『生きる歓び』を書評投稿したことを思い出しました。この文庫には『小実昌さんのこと』も収録されているのです。
生きる歓び (新潮文庫)

【多分僕は少年時代、コミさんと同じ風景を見た違いない。】(栗山光司 2003/12/05 12:01:00)
小島信夫との往復書簡『小説修業』(朝日新聞社)で保坂はリアリティについて夢の中で与えられた状況に対して、いくつになっても必死に逃げたり怖がったり途方に暮れたりして真剣に対処するが、目が覚めた時の現実の生活では年齢を重ねると共に状況を適当にいなしたり高を括ったりすることを覚えていくが夢の中では絶対にそのようなことにはならないと記す。

《もう先生には何度も申し上げたことですが、家で飼っていた猫が予想外の若さで死んだとき、私はいつまでたっても悲しくて、思い出すたびに喉が詰まって涙が溢れ出て、大人になっていても「悲しい」と感じる気持ちは子ども頃とじつは少しも変わっていないことを身にしみて知りました。大人になっても子どもと同じように笑うのですから、泣く方だけが成長とともに薄れるはずはないのです。「喜怒哀楽」という気持ちのエネルギーのようなものは年齢とともに変化することはたぶんなくて、それを社会生活や自分自身のバランスにとって必要だから、いなしたり弱まったかのように振舞うことは身につけていっても、エネルギー自体は本当はきっと子どものときのままなのです。それは夢の中でいくつになっても与えられた状況に真剣に対処することと深く関係しているはずです。同じことだと言っていいのかもしれません。》

人間の内面とか精神にとっては夢と現実では夢の方にこそリアリティがあるかも知れない。そのようなリアリティの切実さは愛猫の死を体験し、彼自身の生きることが書くことのストレートな同衾によって【身をやつす文体】の枠組みから意識して脱皮する事を心がけ、『猫に時間の流れる』から大きな文学的転換をはかったらしい。どうやら彼にとって猫との偶然の出会いは、一種の恋愛小説と同じ空間ではないか、『カンバセイション・ピース』(新潮社)でこんな風に書いている。恋をすると見るもの聞くものが楽しくなるとか、世界が生き生きしてくるとか言うのは本当で、バラバラに拡散しがちな視覚をひとつにまとめあげる力が恋する人の中で働き出して、風景は息を吹き込まれる。つまり恋愛小説とはそういう感覚を基盤にした人間と世界との関係の話で、保坂の猫もそういうことであろう。

収載の「生きる歓び」も「小実昌さんのこと」も異例の速さで脱稿し、猫が憑き、神憑り、カミが降臨したらしい。コミさんの父親は独立教会の牧師で瀬戸内を見下ろす人口密度は過剰な余り山の背まで人家で密集していた軍人と職工の街、呉の十字架のない教会でコミさん親子は住んでいた。その父が信じた、いや信でなく受(ウケ)という分らぬものだが、そんなアメン父が精神全体で感応するカミに似た何かが光臨したのであろう。作者が拾ってきた死に瀕した子猫の生命力が溢れ出てカミのカタチになったのかも知れない。
《猫は薬に馴れていないから本当によく効いて、どんどん治っていく。哺乳ビンの乳首も噛んで自分で飲み、赤身も小さい頭の小さい口からスルスルスルスルあまり見たことのない何か別のメカニズムで飲み込むようにして食べていった。》

確か二編とも小説らしい小説でないかもしれない。保坂文学の中身は窺い知れないが、小説とは「ああも書けるこうも書ける」という選択肢の中から書き手が主体的に選んだようなものはつまらないもので、「こうとしか書けなかった」というのが小説で、それは命を削るものであろう。

http://www.bk1.jp/review/276605
他の評者の方も投稿している。そう言えばこの文庫を読書会のテキストに使ったのです。
しかし、不遜な書評タイトルですね、【多分僕は少年時代、コミさんと同じ風景を見た違いない。】多分、そんなことはない。戦争が間に入っている。でも、風景には断絶がなくもっと大きいものかもしれない。
メルさんの書評もいいなぁ。

「世界」ではなく、「自分が立ち合っている現実」に留まること。そして、それを受け止める「感情の力」。これらが、保坂の「小説」を創りあげるものであろう。「現実」ではなく「世界」のほうを語る言葉を「ご都合主義のフィクション」(p.16)すなわち嘘でしかないとする点が、保坂らしい。ご都合主義ではないフィクションこそが、保坂の小説だと言えそうだ。ーhttp://www.bk1.jp/review/437382よりー

僕自身いわば、「セカイ系のノベル、コミック」、映画でも退屈で読み通すことができない理由がわかる。僕もご都合主義でないフィクションを読みたいのだ。
pipi姫さんの書評もありますよ。6年振りに読むとオモシロイねぇ。http://www.bk1.jp/review/338924
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