時間を描く

前回からの続き。♪上田泰己/体内時計 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」

そうですね、時間のように、掴みようがないもの、見えないもの、
形がないもの。そういったものに形を与える。
そういう人だと思います。僕はそういう人になりたい。(上田泰己)

プロフェショナルとはという問いに対しての上田さんの答えです。
分子生物学者福岡伸一の『動的平衡』についてのブログ「時間」と「いのち」を書いたが、時間の操作についてはやっかいな問題が横たわっているかもしれない。小説家の磯崎憲一郎が「小説は時間を描く」ことだと言ったが、なるほど、小説家も科学者もチャレンジするものはカタチのない時間のようなものだと思ったが、福岡伸一は時間を不可逆的に操作することに対しては非常な警戒心を持っていますねぇ。まあ、僕は科学者ではないので、何とも言えないが、『動的平衡』から引用しているので、再録してみます。

ES細胞は、それ自身だけでは完全な個体にまで分化・発生することはできないが、他の細胞の助けを借りれば個体を作ることが可能となる。実際、動物実験のレベルでは、ES細胞はそういう形で利用されている。
 しかし、ES細胞の分化プロセスがまったくのブラック・ボックスであることには変わりがない。私は、このような生命操作技術は、あくまで生命のメカニズムを探るための基礎研究の手段に限られるべきだと考えており、商業的に利用されたり、性急な医療目的に使用されたりすることには反対である。遺伝子操作や生命操作を用いた生命科学研究は、ある種の不可能性を証明することに行き着くのではないか、と思えるからだ。
 それは生命というプロセスがあくまでも時間の関数であり、それを逆戻りさせることは不可能だ、という意味である。(p165)
(略)
 今や、バイオテクノロジーを使えば二万種のパーツを人工的に作り出すことができる。しかし、それらを試験管の中で混ぜ合わせれば、そこに生命が立ち上がってくるかといえば、決してそんなことはないのである。
 ここで欠落しているのは、生命にとっての「時間」という観念である。タイミングとパーツは時間に沿って組織化され、それぞれの時点で何がどのように起きるかはたった一回限りの現象であり、不可逆的なものである。これを無理矢理ほどいて再プログラミングしようとしているのが、クローン技術であり、ES細胞技術である。
 時間に対して作用を及ぼせば、私たちはその分のツケをどこかで払わねばならないことになるだろう。それが動的平衡というもののふるまいだから。(p166)

しかし、先ほどNHKのETVで「須賀敦子特集」を観たのですが、福岡伸一が熱く彼女について語っていました。須賀敦子も「時間を描く」小説家なのでしょう。ただ、小説家が時間を描くことは許されるけれど、科学者が時間を操作する過程で、不測の事態が起きないとは言えない。僕のような妄想的な想像力では「時間を操作」することで、癌化を促進することもありうる仮説も想定し得るのではないか。まあ、最先端技術はハイリスク、ハイリターンですからねぇ。