横道楽士

偽満州国論 (中公文庫)
自由からの逃走 新版
昨日は4月バカの日ですが、老母の誕生日なのです。出町柳ふたばの「豆餅」食べながら、ビデオ成瀬巳喜男『めし』を観ました。
大正七年生まれ(1918生)だから、満で92歳ですか。この年、第一次世界大戦が終了する。だけど、又、第二次世界大戦が始まるわけです。
オヤジは平成七年に亡くなったけれど、1995年は色んなことがありましたねぇ。
オヤジが召集されて大陸に出征した資料などを「ピースおおさか」(大阪国際平和センター)に寄贈したけれど、
昨日、大学図書館木村伊兵衛の写真集『王道楽土』を借りることができました。
昭和十七年七月に書いた一文は今の時点から批評すると色んなことが言えるが、
時代のただなかに浸かって誠実に行動するとしたら、
画像にアップしている木村伊兵衛の一文以外のことが言えただろうかと想像するに心許ない。
オヤジは克明に従軍日記をつけていたり、アルバムにもキャプションをつけてきちんと整理していましたが、それを読んだり、勲章、賞状などに触れたり、見たりすると、オヤジにとって戦争は「何であったんだろう」と考えてしまう。
「カネがすべてではない承認」の問題がオヤジの根底にあったんだと思う気がする。だから、戦後、商人として失敗するし、僕に「出家」をススメたりする。
ところで、大学図書館のスタッフが『王道楽土』を検索するに一発でヒットしない。僕は自分で在庫を確認しているから自信をもって彼女にはっぱをかけました。
メモ用紙を渡したので「楽土」を「楽士」と勘違いで読んだのです。なるほど、これじゃあ、『横道楽士』♪。
山下洋輔になってしまう。♪解体ジジと生喪じゃぁライブ
♪どんなハプニングが起こるのでしょうか?

赤塚不二夫のマンガで、飼い犬が野良犬に、「こんな首輪がなければもっと自由に歩きたいんだ」と言うのがあった。ところが、飼い犬は、首輪がとれてしまうと、慌てて自分でもとに戻すのである。

茂木健一郎「ギャップイヤー」を読みながら、書簡を想像しましたが、やっぱし茂木さんからの書簡が届きました!のですねぇ。
楽しみです。
ところで、満州に「横道河子」という木材の集散地があったんですねぇ。この小都会の写真も収載されている。

参照:吟遊旅人:blog版
2002年に武田徹の『偽満州国論』に関してこんなbk1レビューを書いていました。
全文、引用アップします。「グーグル×中国政府」の問題に接続しますねぇ。
「情報と国家」は引いたり押したりするのでしょう。

【情報と国家】吾が裡なる【偽満性】
栗山光司
2002/12/09 20:39:00
 満州国とインターネット時代を連続的に見ようとすることが重要なのだ。満州国を語るだけでも不十分だし、インターネット時代を語るだけでも足りない。あくまでも、連続の相の下に両者を配置し、見渡すことではじめて、ほうっておけば「国家」と「都市」の間で揺れつづける波長を「都市的」の方向に少しでも押し戻すことの世界史的意義、それを実感出来る。その実感こそ、浅はかな国家論の誘惑にあらがう決意の根拠たり得るものなのだ。(235頁)
 「都市的共同体」と「国家的共同体」を巡る【情報と国家】という問題意識は私にも、このところ、頭から離れず、断片的で誤解と曲解に満ちた思い込みで考たりしているが、私の稚拙な頭を7年前の本でありながら、新鮮で思いがけない仮説で、心地よいジャブを武田は打ち込んでくれた。まずはこの本に感謝です。
 甘粕正彦大杉栄石原莞爾、田中智学、宮沢賢治吉本隆明を繋げた幻想国家論を[国体][日本語][偽満州国]をキーワードにして、「彼等は言葉に現実を変える力を見る」と言霊信仰の文脈に生きている詩人魂を彼等の中に見て、その限りで、危険な思想家と武田は考えているみたいだ。吉本の論理の綻びにも言及しながら、彼の『共同幻想論』は垂直的な権力としての法たる国家を前提に置いた反国家論として、読解され、禍々しい国体を忍び込ませる危険があるとする。かような恐れによって、武田はハート理論の第一次ルールの水平的な内在規範として、言語化された第二次ルールたる都市を前提に置いた法理論を[足払い]の一手で、「暴力装置としての国家」に技を掛けて、かような危険を中和しようとする。かような足払いは「利」に根ざした都市的な水平指向を座標軸とする人々の得意技でもある。その人々として、石橋湛山、『自由日本を漁る』を書いた清沢冽、大連特務機関長安江弘夫の葬儀を執り行った[インベーダーゲーム]のコーガン、シオニスト達と違って国家に拘泥しない華僑達の強かさを並べて見せる。
 現在、インターネット上に飛び交う情報が益々、越境どころか、近代国家そのものを内部から告発して国家を押し戻しているが、段々国家そのものも強面になって、情報を管理しようとしている。そのせめぎ合いが、ここあすこで行われ枚挙にいとまがないが、その状況にあって、もう一度、熟読吟味する本だと思う。 
 私の中にも「言葉の中に現実を変える力」を見たい性向がある。何故ならそこにエロスを感じるからと非論理的に言わざるを得ない。ただ、臆面もなく歴史修正主義者達みたいに己を肯定する物語を作って見せる精神構造はどうしても、理解出来ない。
 せめて、共同幻想論の中の美女に変じた狐の色香に惑わされないように気をつけるしかないが、泉鏡花高野聖』において、むしろ、たぶらかされて、馬や猿になっても良いかなと思う煩悩の多い人間なので、三島由紀夫のように[国体]なるものを美女の背中と思って飛びつく危険がある。
 1945年、8月20日、甘粕は満映の理事長室で青酸カリをあおいで自決。辞世の句は「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」。
 「虚」であることを承知で、虚に賭けるエロスはギャンブルに留めて置きたいものだ。
 ハートの法理論は異端の法学者と言われながら、熱烈なシンパを持つ沼正也『沼正也著作集』(三和書房)の国家を死滅させる法理論に通底するのではないか。そして、沼正三の『家畜人ヤプー』(幻冬舎)は幻想国家[偽満州国]と同じ文脈に位置する。(http://www.bk1.jp/review/0000158224)

「国家(暴力)/国体(エロス)/情報(お金)」という安易なカテゴリーが僕の脳内にインプットされていることは否めない。