丸山健二

まだ見ぬ書き手へ (朝日文芸文庫)
輝ける文士たち―文藝春秋写真館
丸山健二の『まだ見ぬ書き手へ』を読んでいると、その過剰なる男性ホルモンの分泌に圧倒される。丸山さんは僕と同年なんです。本書は過激な警告の書であり、丸山の「核」が揺るがず剛速球を投ずる。
だからこそ、『猿の詩集』の新刊を上梓出来たのであろうし、その作家としての禁欲的な姿勢は現在まで維持していることにあらてめて驚く。
本書が刊行されたのは1994年です。文芸だけにとどまらず、この国の分水嶺として1995年が語られるが確かにそうだなぁと言う時代相を感じる。
でも、出版業界は変わったのか、まあ、それ以前に文春の「文士劇」なるものはなくなったけれど、僕の記憶にもあるのでちょっぴり懐かしい感じがする。
ルサンチマン的言説で毒を吐く人はいるけれど、丸山さんのはルサンチマン的屈折ではなく、雄々しく騎士道精神に基づいたメッセージであり、「ドンキホーテ」とも言える。

 ましてや書き手同士の付き合いなどは言語同断です。かって、私がプロの書き手になった頃の二十数年前、文士劇なるものがありました。今はさすがにそんなダサイものはありませんが、当時はかなりの人気があって、永久につづくのではないかと思えるほどの勢いだったのです。有名な書き手が一年に一度集まって、学芸会の延長に過ぎないような猿芝居を、読者サービスとして披露するというとんでもないものでした。
 正直なところ私は、この文士劇なるものが存在することを知ったとき、呆れてものが言えず、そのことひとつで文学の世界に失望したのです。サラリーマンの忘年会とどこが違うのかと思い、芸能人の隠し芸大会とどこが違うのかと疑い、日本的といえばたしかに日本的な人間関係なのですが、しかし私は拒否反応を示しました。勤め人時代のおぞましさが蘇ってきたからです。そして、本当にこんな世界から素晴らしい文学が生まれるのだろうかと大いに怪しんだものです。その疑問はしばらくつづきましたが、やがて、「やっぱりなあ」という答えが次々に出て、がっかりしました。(p111)

丸山健二のような書き手はいつの時代にあっても必要なのかもしれない。
猿の詩集 上
猿の詩集 下