その「人」の中には、死者も入りますね、

人生の色気聖―ひじり (1976年)
古井由吉の『人生の色気』を読む。古井さんの小説、エッセイにしても、読み手に真剣の対峙を迫って生半可な読みを許さないのですが、
本書は古井さんの聞き取りをもとに編集部が構成、著者校正をしたもので、とても読みやすい。ただ、読みやすいからうっかりと流して読むと肝心なことを受取そこなう。読み手に繊細な読みの補強を要請されているとも言える。読みやすいなのですが、たっぷりと余白があるということです。

 一つずつ言葉を追い詰めてゆけば、どこかに典拠はあるのでしょう。でも、世に出まわるうちに特定の主語は消えて、無限定の「人」になってしまう。その「人」の中には、死者も入りますね。
  
 晩年の森鴎外は、まるで墓守です。人の死を次から次へたどり、塔婆がいっぱい立っているような小説です。人の死を記す時には、筆がこまやかになるんです。何月何日と細かく刻んで、死へ近づく日々を、簡潔な筆ながら、しっかりと書きこんでいる。小説は、鴎外の史伝のように、編年体で書くと一番やすらかなのかも知れません。過去帳を書いているような気がして。
 作家という職業を外側から考えてみると、何で喰わしてもらっているのか、考え込んでしまいます。よせばいいのに、その理由をあれこれ探ります。やはり、生死の境のアナーキーな場所に留守居する役割に対して、銭をもらっているんじゃないですか?まともな人は、こんなことはやらない。
 昔『聖』という小説の主人公を墓守男にしました。山歩きをしていた学生が墓守小屋に流れつき、見様見真似で集落の墓守男役をやっているうちに、本物になりかかるという話です。どこか自分自身のことが反映しているのかもしれません。あの続きを書くのはもうたくさんですけれど。

 また、暑い季節がやってきました。座っているだけでも汗ばむような頃は、かえって、熱いお茶の方がいいんですよ。話しているうちに、すっかり、陽も落ちました。
 では、また、どこかで。

 最後のページです。
 参照:http://d.hatena.ne.jp/heba/comment?date=20100515#c
    http://d.hatena.ne.jp/soneakira/20100514

そう言えばペドロ&カプリシャス高橋真梨子のライブを聴いたのは新潮社のパーティーだった。デビューしたばかりで名前も知らなかったのにとても印象に残っていたのです。あ!と言う間に大ヒットしましたねぇ。あの頃、出版社も景気が良かった。石川セリもジョニーも1972年頃か。坪内祐三の『1972』がやっぱ一つの分水嶺として説得力がありますね。
新潮社と言えば1970年自決した三島由紀夫と縁が深い。このパーティに招待された頃、僕も本屋をやめる潮時だったのです。「三島からジョニーへ」と時代の景色は大きく変わったわけです。

ダンスというのは、自分の姿勢や動作、人と相交わるときの自分の姿勢を意識するから、いいんじゃないかしら。悪い姿勢でやると様にならないでしょう。古井由吉『人生の色気』p162)
でも、僕はダンスを踊れない…