処方箋として「偶有性」を読む

斎藤環×茂木健一郎/往復書簡『脳と心』を読みながら、僕の『がん病棟』モードで照射すると、<極私的>にも色んな発見があります。
通俗的に「偶有性」を定義づけると、必然と偶然の中間項、必然でもなく偶然でもない位相で働く「偶有性」と仮説してもそんなに間違いはないかと思うけれど、厳密に言えば漏れる部分が多いのでしょう。
お二人の往復書簡では、「偶有性」は重要な論争点なのです。未来に投げかけられた宿題でもあるわけです。
僕の担当医はクスリを処方するとき、効果のほどは?と訊くと、30%位と確率論で応える。
うん?とイメージがわかないから、昔、パチンコで遊んでいた頃30%って、スーパーリーチの確率なんだよねぇ。それに想像界を補強して、現実界と合体。
そうすると、通常、1/250、1/300の大当たりの確率が1/30になり液晶画面がワクワクモードになり期待感が増す。
興奮して、「イケイケ」と声も出る。だけど、外れる場合もある。
外れたら一歩引いて、周りの台を観察しながら、データ分析を行い象徴界で言語分析を行うw。ちょっと気取ってラカン的な喋りでゴメン。
処方箋のことでした。僕の場合は、当初はスーパーリーチの期待に応えて当たってクスリも効いたけれど、やがて、効かなくなる。持続しない。
でも、効いたことは間違いないから、担当医として職務をマットウしたことになる。
リンパ節郭清+放射線治療→ホルモン注射→抗ガン剤投与(再発がん)という道行きになるのですが、
この道行きは別段、「必然」ではなくて、「偶然」でもあるし、「偶然」ではなくて、「必然」でもあるわけで、「偶有性」と言いようがないわけです。

 統計的なアプローチから離れることで、「マッハの原理」や「相互作用同時性」が導かれる。基本的な考え方は、いまでも変わっていません。
 統計的アプローチの有効性を認めつつ、それをいかに乗りこえるかと模索する。これはきわめて困難ではあるけれども、必要なステップであると私は考えます。
 その際に、中心になる概念が「偶有性」であると考えます。そして、私は、斎藤さんが「偶有性」の問題についてどのようにお考えなのか、ぜひお聞きしてみたいと思います。
 その際に、中心となる課題は、いかに「懐疑する心」を持ちつづける一方で、「いま、ここ」の自分の身体を引きうけるか(引きうけざるをえないことを認めつつ、それを受け入れるか)ということではないでしょうか。(p78)

 一見よく考えた政治的、社会的発言でもクリシェ(決まり文句)で「正義」を具現したかに見えるコメントは眉に唾して一応読むことにしている。
『いかに「懐疑する心」を持ちつづける一方で、「いま、ここ」の自分の身体を引きうけるか』、他人に自己責任を問う人ほど自分の正体を明かさない。
人一倍自己責任の荷物を負いたがる人の発言なら謙虚に耳を傾ける。少し、話が脱線しましたが、常岡浩介さんの解放記事でコメントされたのですが、僕の判断で抹消しました。原則、匿名者は抹消します。

 あるものの価値が相対的で、底が抜けているとわかっているからといって、「いま、ここ」でその価値を取りあえず信じることが、否定されるわけではないと考えます。たとえば恋愛。すべての愛がやがて色あせ、醒めることがわかっていたとしても、そのことを先取りして認識し、「いま、ここ」で自分が関わっている恋愛に没入しないことは愚かだといえます。(p80)

 ただ、どんなコメントであっても思考停止しないで良く考え抜かれ、あえて「没入選択」されたものなら、リスペクトします。
 どこにでも散見するコメントに対してアイロニカルな視点で濾過して欲しいものです。それを通しての「没入選択」です。

私が言いたいのは、ものごとというものは偶有的か必然的かのいずれであって、その「中間」はない、ということです。さらにいえば、事態を偶有的に認識しているときは、必然性の相は見えなくなり、必然性の相で認識しているときは、偶有性の相は見えなくなるでしょう。これを「解釈」ではなく「認識」と呼ぶのは、そこにアスペクト的な認識の排他性があるからです。
 まあ実際には、アスペクトなんて話を持ちだすまでもなく、こんなことはカントが「偶然と必然のアンチノミー」として、とっくに指摘しているわけですけれど。
 早い話が、宗教とは、偶有性を必然性として肯定するための認識装置でなくてなんでしょうか。科学とは、さまざまな偶有性を因果関係という必然性のもとで記述しうることへの信頼ではなくてなんでしょうか。いわゆる「反証可能性」には、そこで記述された「必然性」が「真理」である保証はない、ということもふくまれるでしょう。
 そして、精神分析とは、人生におけるさまざまな偶有性を象徴界の作動の名のもとで必然化(≒物語化)してみせるためのテクニックにほかなりません。(斎藤環 p140~2)