セゾン文化は何を夢みた

セゾン文化は何を夢みた

セゾン文化は何を夢みた

永江朗の『セゾン文化は何を夢みた』を読了。色んなことで思い至ることがあったけれど、弟?章の永江朗の「堤清二と軽井沢で再開して分かったこと」(p205〜p273)が本書の白眉であり、他の章はそこまで行く着くための助走であり、その助走も面白いエピソードがふんだんに紹介されておる。今泉正光の『「今泉棚」とリブロの時代』、小川道明『棚の思想』、田口久美子『書店風雲録』、堤清二三浦展『無印ニッポン』、辻井喬上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』、辻井喬『父の肖像』を参照しながら読むと面白さも倍増するかも。

 だからこの美術館の運営は、いわゆる美術愛好家の手によってではなく、時代の中に生きる感性の所有者、いってみればその意味での人間愛好家の手によって動かされることになると思われます。
 美術館であって美術館ではない存在、それを私達は“街の美術館”と呼んだり、“時代精神の運動の根拠地”と主張したり、また“創造的美意識の収納庫”等々と呼んだりしているのです。ー西武美術館 堤清二時代精神の根拠地として」(p275)−

『「今泉棚」とリブロの時代』を補強するエピソードを本書からたっぷり引用します。

 「今泉棚」があまりにも有名になったために、リブロの人文棚、海図のような棚をつくったのは今泉棚だけであるかのような錯覚があるが、これには少し修正というか補足が必要だ。(八十年リブロの棚は)それまで積み重ねてきたところから出てきたひとつの流れだと思う。つまり、何か一冊注目される本が出た、あるいはこれから出るという時に、その一冊からどう広げていこうかと考えながら棚をつくっていった」と中村文孝は振り返る。
 その土壌があったところに今泉正光が前橋から池袋に異動してきた。今泉はキーマン、キーワードという言葉を使って、自覚的に海図をつくりあげていった。今泉は自分の手法を、ドゥルーズガタリの本からとって、「リゾーム」とも呼んでいた。
 「海図」でも「リゾーム」でもいいのだが、重要なのは中村や今泉がそれを固定したものではなく、つねに更新されるべきものとしてとらえていたことである。それを彼らは「棚づくり」「棚の編集」という。先日、福岡伸一の『動的平衡ー生命はなぜそこに宿るのか』(木楽舎、09年)を読んでいて、ああリブロの棚とおなじだ、と思った。生命現象は絶え間のない分子交換の上に成り立っている。リブロの棚も絶え間のない書物の交換によって成立する。
 86年、私はシブヤ西武のカンカンポアから池袋店11階、リブロ内の洋書コーナーに異動になった。ここはアート系のもの以外の洋書一般を扱う売場だった。洋雑誌やフィクション、ノンフィクションのペーパーバック、語学教材などが主な商品である。
 なぜか今泉は私を可愛がってくれて、ほとんど毎日、一緒に昼飯を食べた。ご飯を食べているときも、そのあとでコーヒーを飲んでいるときも、今泉はいつも本の話、それも人文書の話ばかりをしていた。そして、「こんどこういうイベントを考えているんだけど、お前さん、暇を見てリストをつくってくれよ」と言うのだった。私は休日になると出版目録や区立図書館の棚を見ながらリストをつくった。
 私は今泉の部下ではなかったし、そもそも所属会社が違う。そう言うと、今泉は「まあ、そんなことはいいから」と言って、リストづくりを要求した。今泉はそうやって人を巻き込んでいく魅力があった。私も楽しかった。
 今泉はよく著者に会いに行っていた。人文書の書き手だからほとんど大学の教員である。私などは、「書店員が著者のところに押し掛けていっていいものだろうか」と心配したのだが、今泉は「本屋だから会ってくれるんだ」と言い、ブックフェアや講演会の相談ををしていた。ニューアカ・ブームのなかで、書店も著者や編集者と一緒に何かをつくっているんだ、という気分があった。
 今泉と二人でフーコー『言葉と物』の読書会をしたこともあった。『言葉と物』は大学生のころ、一年上の先輩と一緒に、一年間で読んだ本だった。そのときの話をしたら、今泉が「オレたちもやろう」と言うのだ。当時、デパートの閉店時間は六時、私たち社員の就業時間は六時四十五分までだった。一時間残業してからでもたっぷり時間があった。たしか渋谷のブリックという酒場で始めたのだが、二回やると後がつづかなかった。もっともあれはヘーゲルの『精神の現象学』とおなじで、最初だけ読めばいい、というようなところもあるけれども。
 今泉との昼食に、出版社の営業マンや編集者が同席することもあった。正確にいうと、編集者たちが今泉とお昼を食べるとき、今泉が私も誘ってくれたのである。彼らは企画の相談を今泉にしていた。たまに私も意見を求められることがあった。亡くなった筑摩書房の田中達治が、まだ営業課長になる前に、『ちくま文学の森』について相談していたのを覚えている。
 中村文孝は、「営業マンより編集者のほうがよく来る変な本屋だった」と言う。
 「編集者が来て、こんどこんな本を出そうと思うんだけど、なんて。とこがその後、営業マンが来ると、『そんな企画はまだ聞いてないぞ』となったり、営業マンも知らないことを本屋の僕らが知っていた」
 中村のこの言葉で思い出すのは、のちに私が「別冊宝島」(宝島社)の編集者になったときのことだ。当時の上司に言われたのは、「今泉さんに可愛がられたそうだけど、今泉さんが喜ぶような本をつくるなよ、あれは、全国でリブロでしか売れない本なんだから。ほかで売れないから、リブロでだけたくさん売れるんだ」という意味の言葉だった。リブロは変わった店、という認識は出版社にもあったのだと思う。(p79^82)

変態さんがいく (宝島社文庫)衆妙の門 (1974年)論註と喩 (1978年)文壇うたかた物語
僕の記憶ににまちがいなければ、別冊宝島で永江さんは、「変態さん〜」を刊行したのでしょう。こじつければ、セゾン文化の地下茎につながっていなくもない。あとがきで「ポケモンもセゾン系である」という仮説を披露しているねぇ。
今日(12日)は天気が良かったので久しぶりにエル・ライブラリーにお邪魔して金子光晴の『衆妙の門』初版本をゲットしたけれど、この本も「怪しい本」ですねぇ。吉本隆明の『論註と喩』(言叢社同人初版)と大村彦次郎『文壇うたかた物語』と三冊で500円也。