オッペンハイマー/「物理学者は罪を知った」

武田徹のオンライン日記を読む。一部引用。
http://162.teacup.com/sinopy/bbs/1232

そんなかたちで人類につきまとう科学技術を開発したことをオッペンハイマーが「物理学者は罪を知った」と表現したのだと考えるならば、その罪とはキリスト教の原罪にも通じる概念なのではないでしょうか。科学技術によって文明の恩恵を受けるのと同時にリスクをも抱え込まざるをえなくなった人類史の起源を、キリスト教の世界観の中で遡れば、それは智恵の実を食べ、楽園を追放されたエピソードに至るのでしょう。智恵は技術を生み、技術をもって人間は自然環境に働きかけ、環境を利用することを可能にしましたが、ついには原発や原爆をも生みだしました。キリスト教の原罪という考え方は科学技術を手にしてついには悲惨な原発事故を引き起こし、その後処理もまた智恵と技術を使わずにはすまされない人間という存在の本質をも説明するものではないかと私は個人的には考えています。
そしてコミック版のナウシカもまたそうした人間の原罪に向き会おうとした作品だったのではないか。たとえば最近はエネルギーシフトの必要性が言われる。太陽光や風力を使えばいいと言われる。これについてもナウシカの風の谷は風の力で発電をしていたのであり、その意味でエネルギーシフトの時代を先駆けている。しかし風の力を使っていたナウシカが、コミック版の最後で自分たちが生き残るために文明の火を使ったのはとても象徴的です。
確かに太陽光や風力は確かに自然の産物ですが、それをエネルギー源として使うこと自体は紛れもない文明の技です。火はダメで風はいいという短絡的な議論は避けるべきだと宮崎監督は言いたかったのではないか。たしかに再生可能エネルギーを利用する方法を選ぶのであれば、その文明の技が、原発がそうだったように後に災厄を私たちにもたらすことがないか調べ、あらかじめ対応しておくことが求められるでしょう。私は再生可能エネルギーの可能性を信じたいとは思いますが、風や太陽光を使うからといって科学技術の原罪から逃れられるわけではない。
もうひとつ、ナウシカが火を使ってでも自分たちが生き残る道を選んだということも重要です。最も大事なのは生きるという目的の成就であり、そこから生きるために何をどう用いれば良いのかという手段が選ばれるべきでしょう。風力発電は汚れなき技術がだからいというのは、そもそも汚れなき技術などないのだから論外ですが、それを差し引いても、手段の議論は目的の議論よりも後に来るべきでしょう。そしてその順番を守った時にそれは汚れることを覚悟したギリギリの決断になるかもしれない。そんなことをナウシカの物語は示しています。風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

id:shintakさんからの情報で、吉祥寺の成蹊大学で「原子力と文学」というワークショップが開かれます。一部引用。
http://d.hatena.ne.jp/shintak/20110709/1307170936

その端的な一例が、原子力についての認識です。ワークショップ企画者は個人的に、東京電力福島第一原子力発電所の危機に直面するまで、原子力発電の存在を端的に言って忘れていました。冷戦後期にはまだあった、「核」への想像力が、原子力発電には適用されず、そこに「放射能」の危険と恐怖が見いだされることはなかったのです。個人的な悔悟と反省にさいなまれつつ、そこに生じた疑問とは、なぜ核兵器原子力発電に対する認識が、これほどまでに切断されてきたのか、ということでした。

武田徹の『核論』とそれの増補版『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』はそのような意味で「核」と「原子力」が切断なく接続されていたと改めて武田徹の仕事を思う。文学としてのメインカルチャー、映画、コミックのサブカルチャーというジャンルを超えて「罪を背負った科学技術」とともに生きる、生きざるを得ない、抗がん剤は毒かもしれないが、それでもギリギリのところで食らう。がん治療もナイーブではない。臨床の現場において患者の僕と担当医は時として免疫力を上げたり下げたりの微妙な心理的なやりとりをしてしまう。