米原万里/がん半減させた「時間治療」

真昼の星空 (中公文庫)嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)家庭の医学
『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里さんは同時通訳の仕事で国際舞台で活躍し、大宅荘一賞を受賞してノンフィクションライター、コムラニストとしてそのバイリンガルな視点での社会批評などに啓発されるところが多く、彼女のユーモラスな文体も楽しんでいたのですが、このところ、あまり見かけないと思っていたら、3/6の毎日新聞コラムで一昨年、摘出した卵巣がんがリンパ節に転移していたことが確認されたらしい。
ぼくと同じ症状みたいですが、医療技術は日進月歩更新されているので、前向きに考えて欲しい。先日、片山恭一の「セカチュウ」のDVD(行定勲監督)を87歳の老母と観ました。日曜日に孫に呼ばれて彼氏を紹介してもらうと言う情報を訊いたので、恐らく孫達はこの映画を観ているであろうと、予測してDVDを老母に見せたのです。案の定、この映画が話題となり孫達は「泣いた」のですが、老母は「泣けなかった」とのコメント。勿論、僕も泣けなかった。ただお袋はストリーが結構入り組んでいてその解読にエネルギーを費やして泣くどころか疲れてしまったいうのが真相です。ぼくが一番がまんのならないところは、原作のbk1レビューで書いたように白血病がまるで治療方法が全くない死へ向かって一直線の選択肢なのだという前提で物語を進行させてヒロインを病院から連れ出す行為も何の悩みもなく、ひょっとしてこれは犯罪行為でないかと、死ぬことは決まったわけではないのだから、そうかと言って安楽死の問題を正面から取り上げているわけでない。あくまで、ラブストリーのご都合主義で白血病が利用されている。そんな苛立たしさで「泣く」どころでない。お袋も長年月、ガンで闘ったオヤジを看取ったわけだから、ストーリーがはっきりと理解できても恐らく泣けなかったと思う。

米原さんはがん宣告を受けてから読破した関連本は130冊と凄い。ぼくも結構、関連本を購入したが、最初の一年目はよく読んでも二年目からそんなに読まなくなって、いつかクリシン(栗本慎一郎)が脳梗塞に罹った時、最新の医療技術の情報はネットにあると、関連テキストをネットサーフィンして担当医と論争するまでの知識を仕入れて彼なりに病気と闘ったわけですが、残念なことに僕は英文を自在にこなすことが出来ない。だからどうしてもネットから情報仕入れはするが、活字媒体に偏ります。それでも、カルテ開示を要求してカルテを見せてもらいましたが、こちらもある程度の学習がないと、何の意味もありません。米原さんは語学が堪能なので色々と情報のアンテナを拡げていると思いますが、2月28日付けの『アエラ』(朝日新聞社)の惹句広告「がん半減させた『時間治療』」を見て小躍りしたらしい。

抗がん剤を従来の1・5倍から2倍に増やしながら副作用を最小限に止めて治療効果を上げている横浜市大病院第二外科が採用した新しい療法が紹介されている。腫瘍の容積が半分以下に縮小した患者の割合が、従来法の約三十%から約七十%まであがったというのだからすごい。/成功の秘訣は、従来昼間に投与していた抗がん剤を人体のバイオリズムに合わせて夜間に注入すること。「細胞は活発に活動している時ほど薬の影響を受けやすい」「腫瘍細胞の活動は、夜間に活発になることが多い。抗がん剤代謝するホルモンの分泌も夜間に増え、未明にピークにくる。ホルモンの分泌量の増減に合わせて投与すれば、たとえ抗がん剤を多く注入しても早く抜けて、しかも効き目も高い。昼間活発に動く正常細胞がダメージを受けやすいうえに、いつまでも抗がん剤が残ることになる」というわけで、「午後十時から徐々に投与量を増やし午前四時を境に今度は徐々に減らす」「時間療法」が生まれた。−「がん細胞は夜叩く(米原万里)−

とても説得力のある情報です。アエラから米原さんの毎日新聞コラムを経由して、こんな風にブログにアップできる。このようにがん治療の現場で起きている新しい動きがリアルタイムに伝わるにはネットは強力なツールですね。

家庭の医学

レベッカ・ブラウンの本書は“bk1で書評”をアップしてますので、一部紹介します。

『体の贈り物』(マガジンハウス)と同じく訳者は柴田元幸である。柴田さんの日本語はしっとりと、情感があり、レベッカ・ブラウンは柴田訳しか知らないが、原作はどうなんであろうか。原題は“Excerpts from a Family Medical Dictionary”「家庭の医学からの抜粋」と章毎に医学用語をゲート・キーパー(門番)よろしく幟立て、口上のような定義を述べさせている。それはまるで、レベッカが母親の死を描写する時、溢れる感情を制御する門番を要所に立てる事によって、意識的に仕掛けを施した【枠】のように思える。《ホスピスの人たちと会って話をした翌日、家に医療用ベッド、ビニールシーツ、大人用オムツ、ラテックスの手袋、バケツ、スポンジ、錠剤、糞尿袋など、自宅で死ぬのに必要な品が届いた。》淡々と物々を描写するがそこから、母の記憶が立ち上がってくる。化学療法の副作用でbaldness(禿げ)になっていく章でちょっと、おしゃれをしようと、帽子の通信販売カタログを取り寄せ、ベレー帽などを注文して、レベッカの兄が来る前に帽子が着いてほしいと母は思う。あの子の前で古いスキーキャップなんか被るのは嫌だものね、ましてや禿げを見られるなんて、だが、結局、スキーキャップに戻ってしまう。カタログで注文した帽子はどれも、つるつるでぴかぴかの頭から眉のない目までずり落ちてしまい、形もくずれてしまうのだ。《キャップを脱ぐと、そこには剥げ落ちた皮膚の大小のかけらがびっしりくっついていた。クリームやローションをさんざん塗っているのに、皮膚もやはり剥げてきていたのだ。/化学療法をやめると、髪はまた生えてきた。亡くなったとき母の頭は、赤ん坊のように柔らかい薄いブロンドの髪に覆われていた。》抑制された文体だからこそ、哀しみが拡がる。最終章の「remains」は[1.死体][2.残されたもの]であり、兄は骨壺を渓谷の向こう側へ思い切り投げる。/壺が割れる音が聞こえ、それから、灰の残りが煙のように解き放たれるのが見えた。

『家庭の医学』というタイトルはぼくらにとって馴染みの深いもので、赤本と愛称されていた。三桁万で売れていたはず。今人気の電子辞書にも収録されているほどであり、恐らく、題名からレベッカ・ブラウンを想像した人は少なかったと思う。出版社の決断に驚きました。書名の最終判断は誰にあるのだろうか?映画もタイトルが大切ですね。
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