自意識の化物

kanako

ドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読む。ブンガクにしろ、ブログにしろ「私語り」が書き手、話者の信用を担保するような言い方が当たり前みたいに流布されていますが、ぼくはいつも括弧付きで考えてしまう。?ラッキョウの皮を剥くように二、三枚の表層を剥いで見せて「私を語る」のはまだ、可愛くて罪がないと思われるかもしれないが、そんな語りは一番腹立たしい。でも、?全然別ものの拝借したラッキョウの皮を最後まで剥いてみせて、「これが私だ」とパーフォームされると、その見事な手品ぶりに拍手喝采して騙されてもしゃあないかと思う。井上光晴の『全身小説家』は「うそつきみっちゃん」の面目躍如といったドキュメント映画ですが、監督の原一男は作家の虚構性を肯定的に捉えた。作家が学者ならばどうだろう。当然、「私」を被験者とするのであるから、?でお茶を濁すことも?の虚構性の徹底でリアルさを立ち上げることも禁じられるだろう。真摯に自分のラッキョウの皮を最後まで剥いてみせなくてはならない。個から一般普遍性に繋げるということはとても大変なことだ。理論構成する困難さ、テキスト不足を補完するためにツールとして「私語り」を持ち出す場合はとても胡散臭い。水戸黄門の印籠のように正面切って高々と掲げる「私」は?のような可愛げのない表層の私か、?のような中途半端な虚構の「私」であろう。『地下生活者の手記』はそんな語りの戯れを一笑に付す。
参照:http://blog.livedoor.jp/andrew1003/archives/16112662.html

銭湯MAP東京―銭湯へ行こうデータ編ヌルイコイ

全身小説家井上光晴の娘、井上荒野の小説を読むのは初めてです。ぼくがよく訪問する“とみきち読書日記のブログ”で荒野さんの書評があったので、頭の隅にインプットされていたのか、『ヌルイコイ』ブックオフで手に取り捲ってみたのです。そうすると、銭湯と言う文字が一杯、飛び込んでくる。どうゆう文脈で銭湯屋さんが描かれているんだろうと、興味を持ち、ゆっくり確認したくなったので、まあ、百円ということもあるのですが、気軽に買いました。東京時代は毎日のように銭湯に行きました。こちらに来て、一番の不満は歩いて行けるところに銭湯がないことです。内風呂とは全然違う銭湯文化ってあるんだと思う。漱石を始めとして日本近代文学を銭湯で渉猟しても、結構、印象的なシーンが検索できるはずである。勿論、温泉をキーワードとすれば、あまりに多くの文献が見つかるだろう。でも、「温泉文学」と「銭湯文学」とでは、別物って感じがする。銭湯は郊外にも、田舎にも似合わない。都市伝説の溜まりの場っていう不可思議な磁場がある。ぼくは今だに「東京銭湯マップ2000」の小冊子を引越しの時にも捨てないで、愛用している。週刊誌大で区別のマップで書き込みもし易いすぐれもので、貼り付けたメモとか、私家版東京地図帳として調法しているのです。荒野さんのこの本は、競輪が開催される時だけ活気付く場末の町の銭湯を舞台に「ヌルイコイ」を描いていく。ただ、おばあちゃんと若者のコイ?は、あんな結末で落としどころをつけたのは、安易過ぎた感じがする。最終章でバタバタと予定調和が余韻もなく進行したのは、それまでのゆったりとした物語の流れに、無理してくっ付けた不自然さを感じた。始めに結末は仕上がっており、後でドッキングさせた、そんなズレの切り口が見えるラブストーリーで、もっと別な物語があったんではないかと、ひょとしてこれは笑劇なのかと、恋愛劇にしては愛すべき鳩(若者)のカタチが茫洋として見えないのです。まあ、一様、ぼくが始めて体験した「銭湯小説」ですと、命名することで感想に替えます。無性に銭湯に行きたくなったことは間違いありません。「ヌルイ湯」に長時間浸かって、ぼけーとしたい。風呂上りにコーヒー牛乳を飲むのです。瓶の蓋の付いたやつ。
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