自意識の化物

kanako

ドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読む。ブンガクにしろ、ブログにしろ「私語り」が書き手、話者の信用を担保するような言い方が当たり前みたいに流布されていますが、ぼくはいつも括弧付きで考えてしまう。?ラッキョウの皮を剥くように二、三枚の表層を剥いで見せて「私を語る」のはまだ、可愛くて罪がないと思われるかもしれないが、そんな語りは一番腹立たしい。でも、?全然別ものの拝借したラッキョウの皮を最後まで剥いてみせて、「これが私だ」とパーフォームされると、その見事な手品ぶりに拍手喝采して騙されてもしゃあないかと思う。井上光晴の『全身小説家』は「うそつきみっちゃん」の面目躍如といったドキュメント映画ですが、監督の原一男は作家の虚構性を肯定的に捉えた。作家が学者ならばどうだろう。当然、「私」を被験者とするのであるから、?でお茶を濁すことも?の虚構性の徹底でリアルさを立ち上げることも禁じられるだろう。真摯に自分のラッキョウの皮を最後まで剥いてみせなくてはならない。個から一般普遍性に繋げるということはとても大変なことだ。理論構成する困難さ、テキスト不足を補完するためにツールとして「私語り」を持ち出す場合はとても胡散臭い。水戸黄門の印籠のように正面切って高々と掲げる「私」は?のような可愛げのない表層の私か、?のような中途半端な虚構の「私」であろう。『地下生活者の手記』はそんな語りの戯れを一笑に付す。
参照:http://blog.livedoor.jp/andrew1003/archives/16112662.html