言葉が届かない、
一ヶ月ほど前に佐木隆三氏の「光・母子殺害差し戻し審」について書きましたが、今日の毎日新聞に佐木さんの傍聴記寄稿がアップされている。
「笛吹けども踊らず」とは、「お膳立てをし、いくらすすめ誘っても、人がこれに応じて動き出さないのにいう」と「広辞苑」にある。弁護側による被告人質問を聞き、そういう印象を受けた。いくら元少年に身を寄せて考えようとしても、共感することができない。
犯行現場で被害者に激しく抵抗され、「お母さんのイメージが崩壊した。私の実母は暴力をふるうような人ではない。首を絞めたのは、弥生さんに取りついたものを押さえつけるためだった」と、こんな弁明は通用しないだろう。
初めて知ったのだが、高校時代は柔道クラブに所属しており、「落とすところまでは経験していない」とか。こういう専門用語を使える18歳の少年が、母親に甘えるように社宅住まいの主婦に抱きつき、誤って死に至らしめたのか?
被告人質問を前に、念入りなリハーサルなされるのは、当然である。しかし、「赤ちゃんは座って泣いておられました。泣く原因をつくったのはボクだから、抱いてあやそうとしたけど力が入らず、赤ちゃんは落ちられたのです」と、丁寧語を連発されても困惑する。(後略)
ボクは困惑を通り越して、「不気味な怖さ」すら感じました。どうしても、僕の想像力がまるっきり届かないのです。弁護人によって演出された、丁寧語ではなく、被告人が被告人自身の言葉で喋れば、どこか深いところで言葉が届くかもしれない。一体、法廷とは「真実を回避」する場所ではないはずだ。過剰であっても構わない、被告人の「自分で語る言葉」でしか、「何が起きたのか」を判断する手がかりがないのです。
麻原も「沈黙」でしたね、時として演出された言葉も「沈黙」と変わらない。一番、大事なことは被告人の言葉を引き出すことでしょう。そこでしか、回路はないのでしょうが、法曹という場で、果たしてそのことが可能かと問われれば、わからない。
ブログ的書評なのかなぁ…、
日本列島改造論
bk1の書評はアマゾンと比べてアクセス数は天と地の差ほどあると思うけれど、偶に読むと、面白い記事(あえて書評と言わないで)がある。例えば本日の新着書評は17件ですが、こちらの三件はぶんぶん、名調子、迷調子と言うか、僕は良くも悪くも、愉しんだり、怒ったりしました。
感情を刺激するものがあるのです。もし、ブログでかような物言いなら、炎上とはいかないでも、コメントカキコ、トラバの嵐になるだろうと予測出来る。bk1の書評は1600文字なので、時事コラムのようなノリで書けてしまうし、僕自身も、書評と言うより、僕の言いたいメッセージが先にあり、そのメッセージを強化するネタとして書評本を利用する、そんな振る舞いが多分にあります。でも、そのような書評でも受け入れてくれるどころか、結構評価してくれるbk1書評の面白さがあると思う。こんな書評があってもいいではないかというのが僕の感想です。
僕自身もブログでは書けないけれど、投稿書評なら書けるというのがあります。
【本日の書評の参照】
■斎藤美奈子著『それってどうなの主義』♪「このタイトルだけで人が寄ってきます。すばらしいセンス。斎藤の主張はある世代特有のものなんですが、右傾化をしている今の日本人には、非国民と受けとられるかも」(評者みーちゃん)
■田中角栄著『日本列島改造論』♪「イナカモノのおねだりはもう沢山。東京の金は東京で使う。口惜しかったら、東京へ来い!」(評者塩津計)
■義家弘介著『ヤンキー先生の子供がわからない親たちへ 』♪「著者の経歴をどうして肯定的に評価できるでしょうか?」(評者バントでホームラン)
読んでいると、評者さんでも色々な人がいるんだなぁと驚いてしまう。マスメディアでのプロの書評は特に時事ネタは、似たような予定調和で落としているのに、これらの評者さんたちは、そんな姑息な営業的予定調和はなく、ある種、潔さがあります。
僕の立ち位置とまるっきり違っていても、読んでいて「感情」の部分まで接続してくるのは、評者さんに「切実さ」を感じるからでしょうか。そのような濃度で、ほぼ、毎日、1600文字をアップしている。このエネルギーに脱帽ですよ。
偶々今日だけでもかような投稿書評にスパークするわけですから、とてもじゃあないけれど、毎日読み手としてロムするのは大変と言うのもあります。(笑)
猪瀬氏の副知事選任案、可決へ=東京都議会
時は流れる、老いは忍び寄る。でも、猪瀬さんって、僕より若いんだ!柔道をやっていたころの得意技が変形巴投げ?でした。相手が大きくて、力が強いと良く効くのです。
参照:http://162.teacup.com/sinopy/bbs?M=ORM&CID=685&BD=2&CH=5