国家とはなにか

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

 こちらでもちょいと触れましたが、『フリターズフリー』生田武志の論考、『フリーター≒ニート≒ホームレス」』をテクストにarisanさんが、エントリーアップしています。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070727/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070730/p1
追記:再び生田さんへの応答と謝辞 - Arisanのノート
 ◆言い換えれば、上山和樹が語ったような「公」や「社会」の像に、生田の考える「連帯」の構想がほんとうに見合うものなのか、ということである。
 ◆生田のこの論文では、彼のいう「国家・会社・家族」のうち、後の二つについては非常に深い分析が展開されていると思うが、「国家」に関する部分、つまり政治的な運動体の権力構造の分析については、まだ甘い部分があるのではないかと思う。
 ◆いまや現実には、この「自足」という虚構性の維持さえ不可能なところに、フリーター的な生は追い込まれている。加害性を否認することによって強化される構造的な締め付けは、フリーターたち自身の身を締め上げているのである。
 この三点は確かに気になるところです。
 ところで、昨日、生田さんのHPにアップされている長文なテクスト『口実としての「自己責任」論』で取り上げられていた田川健三の『イエスという男』(三一書房)が近所のブックオフの百五円コーナーにあったのには、驚きました。もう、絶版でしょう。勿論、買いましたよ、ついでに単行本を持っているのですが、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)もありました。どちらも美本で何か申し訳ないような気分になりましたね。
 追記:「国家について」萱野稔人×生田武志トークイベントを「FF」で企画して欲しいですね、会場はやむなく中止になった、こちらでも、リクエストです。関西の僕は参加は出来ないけれど、面白い企画だと思います。

死の断片/生きた花

映画を見る眼

映画を見る眼

 『風の旅人 19号』で、小栗康平のエッセイ「五感と映像のあいだ」を読む。
 群馬県の小学校で小栗さんが行った公開授業での「映像教育」についてのレポートである。
映像は膨大なカットの集積であるけれど、生身の私たちは「生まれてから死ぬまでたったひとつのワンカット」でものをみているんではないか、切れ目がない。

[……]そしてここからが私の芝居。私はやにわにその花束を花瓶から抜き取り、床に投げ捨てる。私はいまなにかで怒っていて、その腹いせにこういう行動をとりました、この花を足で踏み付けたい。誰か代わりにやってくれる?子供たちは躊躇する。それが生きた花だからだ。よし、それなら、と私がバラの花を踏み付ける。子供たちがいっせいに緊張する。
 この模様がカメラで撮ってある。子供たちを席に戻し、私のとった行為を映像で見る。何が違うのだろうか。ここが授業の核心である。画像には痛みがない。他人事でもある。抜け落ちてしまったものがいっぱいある。みんなが毎日これと同じように、大事なものが抜け落ちてしまった状態でテレビを見ているとしたら、と問いかける。
 映像表現は、私たちが身体としてもっている感覚を、道具を使って確かめるものだと、私は思っている。それが失せてしまうと、情報だけが肥大化していく。その情報が私たちの生の連続性、持続性を断つ。
 授業の終わりに、35ミリのフィルムの切れ端を子供たちみんなに配る。私からのお土産である。これなくして、この子供たちは生きていけない。でももう片方の手に、生きたバラの花も必要だ。

 僕は学者ではなく素人考えですが、学者のお仕事も映画監督の作業過程と殆ど同じなんでしょう。膨大なカットフィルムをとり、集め、編集する「死の断片」のコレクターなのでしょう。まだ、手に入れていない仲正昌樹の『思想の死相』は、学者が思想を取り扱う振る舞いに置いて、それらは「カットフィルム」に過ぎないと言う諦念が必要だと思う。でも、そのような諦念を抱きながら、もう片方の手に、「生きたバラの花」を握りしめて、棘の痛みを感じる切れ目のない補給を不断にやるしんどさが課せられているのだと思う。