野間宏/武骨な戦後派

暗い絵・顔の中の赤い月 (講談社文芸文庫)青年の環 5 (岩波文庫 緑 91-7)プレーンソング 草の上の朝食 (講談社文庫)
◆確実に「戦後の何か」が消えている。過日、本棚の整理をしていて、野間宏の自筆のサインに=ものみなは/炎の縛解いて/馳けて行く=と扉に書かれている本を発見した。文は昭和40年代に『青年の環』(河出書房)が完結して、出版社の方から頂戴したものである。この「政治と文学」を語る戦後派文学の大河小説は青年のぼくに読むことを強いりはしなかったが、自ら進んで文学徒でないにもかかわらず、読了したのです。好奇心と体力があったのか、でも、当時、本屋で働いていたがそんなに本は読んではいなかった。読んだという記憶だけは残っている。でも、内容を全く思い出さない。そんな疚しさでネット書店で念のため検索すると、350件も「野間宏」でヒットしたが、百%近く、絶版、品切れである。日本文学史において戦後文学の果たした役割、そして現在進行形で大西巨人は書き続けているが、椎名麟三、梅崎春夫、大岡昇平武田泰淳埴谷雄高、の流れは「近代文学」、「新日本文学」という「政治と文学」の論争に収斂して、この六十年、戦後文学の命脈は尽きようとしているのか、確かに「日本近代文学館」という立派な箱物が小田切進、高見順などの運動で完成したが、現に只今、本屋の店頭で、ネットでも、戦後文学の顔ともいうべき「野間宏」が消えていることは事実である。でも、それをとやかく言うことはぼくには出来ない。読んだ事実はあるものの、ぼくの裡に「青年の環」が知らぬ間に消えているのですから、馳けて行く、駆けて行く、駈けて行く。「野間さん、ぼくたちは、炎の縛を解くことを望んでいないのかも知れません」「又、炎を目がけて馳けて行こうとしているのではないでしょうか」、「六十年は還暦の環であって、あの忌まわしい時代に戻ろうとしているのでしょうか?」

「ものみなは 炎の縛解いて 馳けて行く」…、そうありたいものです