保坂和志/5/27記(旧ブログより移動)

この人の閾 (新潮文庫)
◆『この人の閾』(新潮社)紹介:主人公のぼくは世帯を持って旦那と子どもと、まあ、幸福な生活を営んでいる女友達の自宅を昼下がり、ふと、思いついて仕事の時間空きを利用して、十何年ぶりかに会う段取りをする。大学時代同じ映画サークルに属して、気兼ねなく話しができるだろうという気分の保証のようなものが、その女ともだちにあったわけだが、案の定、郊外の一軒屋を訪問して、草むしりを手伝わされたり、小学校から帰って来たサッカー好きの息子とサッカー談義をしたりと、「明るい郊外の昼下がりの日常」が淡々と描かれ、映画談義、ガーデニング、と、話しが進行していくのだが、ぼくっていうのは、年賀状に『働くことに思想はいらない。思想がなければ怠けられない』って、書いてしまうような人なのだが、女友達真紀さんの旦那は「仕事に歓び」を感じている人で真紀さんもダンナをとても愛している。そんな真紀さんの語り口をぼくはとても好感をもって聞いている。「子育て」、「主婦の居場所」、「ちゃんと働くということ」、…。

真紀さんのいる場所はいまのこの自分の家庭の中心ではなく、家庭の“構成員”のそれぞれのタイム・スケジュールの隙間のようなところで、それでは“中心”はどこにあるかといえばたぶんそんなものはない。子育てというか子どもの教育を中心に置いてしまうような主婦もいるが、真紀さんの場合はどうもそれもなくて、たとえばモンドリアンの絵のように色分けした画面分割だけのような絵や、誰の絵か忘れたがふわっと彩色されたキャンバスの上で何本もの斜線が交差し合っているような絵を、ぼくはそのとき想像した。そして、現代芸術というのは絵画も音楽も何でもどんどん抽象度を増すが、家庭もそうだったのかと思ったりした。

真紀さんって、ビデオもよく観るが、本もよく読む。長い話が好きで、自分の生活のテンポに合うのだという。『特性のない男』、『ローマ帝国衰亡史』、『失われた時を求めて』だとか、でも、ドストエフスキーはダメらしい。おもしろすぎてやめられなくなってしまうらしい。哲学の本も読む。

「ああいう本って、ページめくるのがゆっくりだから、重し置いて、手ェ放して読んでいられるのよ」

そして、ただ、ひたすら、読む。

「だって、もう読むだけでいいじゃない、何読んだって感想文やレポート書くわけじゃないんだし。読み終わっても何も考えたりしないでいいっていうのは、すごい楽なのよね」(中略)「真紀さんはこれからずーっとそういう本読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさーー、本当にいまの調子で読んでったとしたら、けっこうすごい量を読むことになるんだろうけど、いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になって、おしまいーーっていうわけだ」/「だって、読むってそういうことでしょう」

参照: 『shohojiさんから本書への便り』です。