保坂和志/6/5記(旧ブログより移動)

◆『プレーンソング』(中央公論新社)を読了したので、そのことに触れながら、過日のぴぴさんのコメントに答えようと構えていたが、巻末の解説で四方田犬彦が無駄なくまとめてくれている。それを一部、引用します。

もう誰もを信じさせることのできる強烈なドラマなど、映画で描くことなどできないのではないか。作者はこうした思念を、ゴンダという青年に代表させて、語らせている。彼はいう。「ぼくは物語っていうのが覚えられないんですよ。粗筋とかーー」。だから彼が海岸で友人達を被写体として回し続けるヴィデオカメラは、人物の動きに対応しているわけでもなければ、それを追っているわけでもない。「何か事件とか派手な話とか、そういうのを撮りたい」とは、けっして思わないのである。そしてこうした姿勢は奇しくも、保坂和志が小説という文学ジャンルそのものに対して抱いている態度のメタフォーたりえている。ゴンダは、高校時代からずっと小説を書きたいと思っていて、今は映画を撮っている青年という設定である。それはちょうど作者の逆さまの分身であって、保坂はゴンダが映画に対して向けている当惑と逸脱そのものを、小説に対して向けているのだということが判明する。そう、この小説には記憶することのできる強烈な物語などほとんどないし、あらゆる登場人物の行動は断片的にしか捕らえられていない。簡単にいえば、いかなる意味でも、これまで小説が規範として携えてきた、表象すべき全体性という観念から無縁なのである。

まるで、優等生みたいなまとめ方なので、逆に本文の、実際に読んでいるときに感じる気持ちよさ、ユッタリ感、みたいな、裏表紙に紹介されているような野良のーうっかり動作を中断してしまったその瞬間の子猫の頭のカラッポがそのまま顔と何よりも真ん丸の瞳にあらわれてしまい、世界もつられてうっかり時間の流れるのを忘れてしまったようになる…。ーそんな空白の悦楽があるんだということが、言及出来なかったような気がするが、それは本文を読むことでしか体感できない性質のものであって、保坂さんの小説はそういうライブで読むことでしか、伝わらないものだと思う。しかし、この解説文はぴぴさんのレスにはなっていると思います。