[戦艦大和ノ最期

◆今朝、毎日新聞を覗くと呉市で来春『大和ミュージアム』開館とある。元戦艦大和乗組員、景山崇人さんが(80)が資料提供したらしい。今春、『熱い書評から親しむ感動の名著』(すばる舎)という本が出版され、ぼくは別段、かような動きを知らなかったが、吉田満の『戦艦大和の最期』の書評を書きました。タイトルは『光る海−静かな一日−』(62頁)です。その本に批評的な視点で古山高麗雄にも触れましたが、上半期に話題となった渡辺謙の映画『ラスト・サムライ』の生き様に、そして、六十年の月日を経て海上自衛艦が呉港より、イラクへと派遣された、その来し方行く末を僕自身、還暦になったこともあり、思い遣りながら、書いたのです。その拙文は一応、版権はすばる舎にあるので、勘弁してもらって、松岡正剛さんの『千夜一冊』にも取り上げていますので、そちらのコンテンツをリンクします。
“九百六十一夜”
戦争の記憶が薄れてゆく。文学として記録として生き続けるには六十年の歳月は長いのであろうか?『戦艦大和ノ最期』は息長く語り継がれた稀有な戦争文学であろう。凝縮された吉田満の想いが伝わる。『大和ミュージアム』が開館されるのは結構なことであるが、殆ど同年で捕虜生活の経験もある呉市の十字架のない独立教会の牧師の息子として生まれた作家『田中小実昌』の記念館も建てて欲しいものです。彼の戦争体験記も立派な文学です。
新聞記事によると景山さんは特攻作戦に参加出来なかったが海の藻屑となった2733人の想いを伝えたいとこの事業に加わったのですが、

原爆で家族を失う。/同年八月六日朝、広島市近郊の兵舎からキノコ雲を見た。翌日、同市内の実家に駆けつけると跡形はなく、父と十三歳の妹が死亡。/母と十七歳の妹は今も消息不明だ。旧海軍兵学校時代に聞いた「前線でも微分積分をしろ」という言葉から、どんな時も物事を合理的に判断することを学び、戦後の人生の支えになった。

◆景山さんの述懐である。ところで、開館に関して「ピースリンク広島・呉・岩国」の湯浅一郎世話人は呉大空襲で呉市民が犠牲となったことを指摘して、「建設は改憲論が幅をきかすような時代状況を無視しており、平和にはつながらないと」批判しているらしい。丁度、武田徹さんが知覧を訪問してのカキコが、今朝、ありました。

おととい知覧で食べた鶏飯はもっと鶏ガラの澄んだスープだった。そこは奄美料理屋となのっていたが、奄美本場は醤油を使うのだろうか。知覧といえば・・・、やっぱり特攻だが、記念館に行ってもそこは聖戦の自爆テロとの相似性って触れられないし、語られもしない世界である。つらいのは分かるが、そうした共同性のために個々人の生命が犠牲になるという構図の同型性から考えないと戦争もテロも理解できないのではないかと思ってしまうのだが。もちろん意地悪く両者の相似性を指摘するつもりはない。自爆テロとは違うっていう意見でもいいのだ。何か言及してくれないととりつくしまがない感じ。平和教育とか、歴史教育で、この種の問題を無言のまますますのでいいのだろうか。

◆そうなんだ、無言のまま済ますのが一番、良くない。斎藤貴男さんが新刊『安心のファシズム』で“コンフリクト・フリー”の葛藤回避、論争回避のこの国の問題先送りの状況に警鐘を鳴らしているらしいが、市民団体もやみくもに頑なにならないで、逆に開館を平和運動の良き転轍にするといった合理的な選択が欲しい。景山さんも合理性を信条にしているのだから。