野村芳太郎/再現がきかない

片岡義男の『自分と自分以外』(NHKブックス)を読んでいたら、無性に昭和30年代の映画を観たくなり、京都府立図書館に『ホモ・サケル』を返却したおり、多分、オールロケの『張り込み』(松本清張原作)をビデオで見せてもらいました。東京から佐賀までの蒸気機関車もさることながら、なんでもない風景に共振して、物語は周知のことであるのに、新鮮な気持ちで映画を堪能しました。最近テレビ化されたものと違って、『砂の器』は文句なく野村芳太郎の代表作であろうが、この時代の彼の作品をもっと見たくなった。シネ・ヌーヴォーで「小津安二郎特集」を長期に渡ってやっていたが、もう終わりでしょう。ここで、『野村芳太郎特集』をやってくれないかな、かって、池袋の文芸座で五十音順で監督特集を企画上映したが、そんな名画座志向の観客たちが、ひょっとして、団塊の世代が定年退職すれば(注:約700万人が07年から定年を迎える)、押し寄せてくるかも知れない。でも、定年退職年齢が65歳に引き上げられたから、そんな事態は先送りか、映画って、やはり劇場で観るべきですね。でも、昭和30年代、40年代は読むべきもの、見るべきもの、聴くべきものが、あまりに沢山あるのに驚きます。単にセンチメンタリズムで言っているのではありません。「奇跡の時代」として祭り上げるものでもありませんが、ただ、後悔の念は、そんな素晴しい時代であったにも拘らず、リアルタイムでは、鈍感にやり過ごして、果実を味わいそこねたということです。その当時はその良さが分からなかった。そういうことが、あまりにも多すぎたのではないか、そんな述懐です。ヒロイン高峰秀子の遅れた熱情は痛ましい。今、狂っても行き場がない。