青木淳悟/文学はまだ、終わらない

保坂和志公式ホームページで、新潮新人賞受賞作家第一作『クレーターのほとりで』を保坂さんが絶賛していたので、気になり読んでみました。「病んだ精神病的、犯罪者的な想像力でなく、まさしく文学とか芸術でしか現れてこない想像力」という言い方で評価されると、青木淳悟のことを知らなくても読みたいとドライブされます。ぼくのブログを訪問してくれる山寺のおしょうさんは、さっそく、本作を読んで《[……]ほとんど「神話」です。現代を現に生きている人にまだ神話のようなものを「生み出す」力が残っていると知るだけでも、読む価値がありました[……]》 とコメントをくれました。おしょうさんはこの小説に「神話のようなもの」を感じたのですね。
新潮八月号『批評の核』柄谷行人福田和也とが対談して、ハイデガーの?「高度なテクノロジーの下で何が残されているか」という問いを巡って、

柄谷:今、「自分探し」とかいうのをよくいわれていますけれど、あれは内面性とは違います。内面性がなくなっている状態だからこそ、自分を探すのです。何か、そういうものが哲学と呼ばれたり、文学と呼ばれたりするのです。しかし、ぼくは、あんなものは哲学ではないとか、あんなものは文学でないといいたくない。どんなかたちであれ、文学や哲学を回復するようなことをいいたくない。たんに文学は終わったということをいいたい。しかし、「考える」ことは残っているのだから

ぼくが、意識的に考え始めたのは、?「自己家畜化の下で○○に何が残されているか」です。その○○が文学であろうが哲学であろうが、ネアンデルタール人が滅びたのは、恐らく自己家畜化(テクノロジー化)が出来なかったからでしょう。ある覚悟があれば、家畜化に抗うのは簡単です。でも、来る哲学、文学はその家畜化を引き受けた上で、悩み、書くことではないかと思います。森岡正博は『無痛文明論』という奇書ともいうべき哲学書を書きましたが、ジャンルを超えて、武田徹は『隔離という病』を書き、東浩紀は『動物化するポストモダン』を書いていますが、?、?の立ち位置で“神話”が可能かで、おしょうさんは、本書にその可能性を見て、驚いたわけですが、“文学は終わっていない”と柄谷さんにレスしたいですね。
#『山寺』##『古谷利裕「偽日記」9/17,18』#『冒頭部分掲載』