ハーバーマス/自由の相互承認

大澤:〔……〕一方に、普遍的な正義を抽象的な形式として提示しうると考えたモダニストがいて、他方には、そういったものを相対化してしまい、正義や善の普遍性をまったく信じないポストモダニストがいる。今、おっしゃたようにポストモダニスト相対主義は自己論駁的です。が、しかし、モダニストに対するポストモダニストの問題提起は受け止めなくてはならないし、竹田さん自身も、実際、そうしていると思うのです。/ところが、かなりハーバーマスに好意的に議論されているところが暗示しているように、竹田さんの結論は、モダニスト的な線に戻っている感じがします。「自由の相互承認」という議論を導出するに当って、竹田さんはハーバーマスの議論を利用されているわけです。ハーバーマスを批判しているような感じで取り出しているんですけれども、批判がややあいまいで、結局、ハーバーマスにかなり近いんじゃないかなという印象を持ったわけです。/ハーバースは、ヘーゲルの『精神現象学』の展開と対応づければ、(「道徳的精神」の中の―「良心」の前の―)「道徳的意識」の段階にあたっていて、なんらかの積極的な理想理念を普遍性として提起しうると考えていると思います。が、その理想理念は、ちょいと距離をおいてみれば、はっきりと、ある種のヨーロッパ的な―つまりローカルな―規範をアプリオの前提としたものだといえる。〔……〕/アレントハーバーマスモダニストであって、同種の限界を抱えている。現に、ハーバーマスは、いっていることを聞いていると、一見、とてももっともなものに聞こえるんだけれども、その実践的な含意には、かなりひどいものがある。例えば、僕がハーバーマスに失望したのは、コソボで紛争があったときに、NATO空爆を彼が積極的に容認したことです。セルビア系の住民か何かを、彼の理想的な討議というものに参加する意思のないやつとみなしているわけです。つまり彼の討議倫理は、あのような紛争には太刀打ちできなくて、結局、一方の陣営を単純に排除するしかなかったわけです。ハーバーマスの議論」というのは、ある種のモダニスティックな排除の論理というのをまだ持っている。〔……〕/〔……〕いってみれば「自由の相互承認」というときの「自由」ということそのものを考え直す必要があるということです。自由ということを古典的なコンセプトのまま捉まえているときには、結局は、自由は、暴力的にしか解消できない相克へと至る。しかし、自由ということを根底から考え直してみると、それは、古典的なそれとはまったく別様に捉まえることができ、そうした新しい自由の概念のもとでは、「相克」からの突破の可能性が見えてくる。それが僕の見通しです。-『群像』2004年9月号“新しい「自由」の条件 竹田青嗣大澤真幸”より-