ジョルジョ・アガンベン

【A】《[…]ホモ・サケルを狼男に、また古代ゲルマン法の「平和なき者」に、はじめて近づけた。[…]古代ゲルマン法を基礎づけていたのは、平和という概念と、これに対応する、悪人の共同体からの排除であるという。そのように排除された悪人は平和なき者となり、そうなると誰もが殺人罪を犯さずに彼を殺害できた。中世における締め出しもまた、これに類する性格を示している。締め出された者は殺害可能であり(「締め出すとは、誰であれ、その者に危害を加えることができるということである」)、あるいはただちに、すでに死んでいるものと見なされることもあった(「死罪で都市からの締め出された者は死んだものと見なされなければならない」)。[…]したがって、集団的無意識において、森と都市のあいだで分割された半人半獣の雑種の怪物としてとどまっていたにちがいないものー狼男ーはもともと、共同体から締め出された者の形象なのである。ここで決定的なのは、この人が「狼男」と定義され、単に「狼」とは定義されていない(「狼頭」という表現は法的地位をもつ形式となっている)ということである。締め出された者の生はー聖なる人間の生と同様にー、法権利や都市といかなる関係もない獣的な本性などではない。締め出された者の生は、動物と人間、ビュシスとノモス、排除と包含のあいだに不分明の境界線、一方から他方へと移行する境界線なのだ。人間でも野獣でもない狼男はまさしく、そのふたつの世界のいずれにも属することなく、とはいえ逆説的に両方の世界に住みついている。ーGiorgio Agamben『ホモ・サケル』(以文社)p148よりー

 【B】《島田雅彦:[…]/サラブレッドを作るのが大好きなアングロサクソンの考え方からすると、今までは安い人種から臓器を買ってそれを移植するというようなことがあって、民族差別というか、貧富の差を活用した臓器売買ビジネスも成立していた。しかしこれは人権問題である、となると、それをクリアする上で、人権のない人の臓器を使おうということで無脳児を作るという発想になるわけです。脳がなきゃ人権もない。臓器工場ですよね。そういう方向にテクノロジーは向かっていく。確かに今までの人権思想からすると、抵触しないように見える。人間を人格や個人という単位ではなくて、臓器とかDNAという単位にまで細分化していった時、そこで新たな人権の概念というのは確保されるかどうか。

 浅田彰:その意味で、人権はすべての人に平等に保障されるべきであるという当然の前提を再確認しなければならない。そういうことでいうと、日本でグアンタナモやアブ・グレイブに対応するのは実は皇居かもしれませんね。血統の維持、つまりはリプロダクションだけを目的とする生物体に還元させられた人がいて、人権を剥奪されているわけでしょう。日本においては、神は人間宣言をしたはずなんだけれども、あのファミリーには依然として人権がない。》ー新潮9月号「対談 浅田彰島田雅彦『天使が通る、ふたたび』」よりー

 大澤真幸の『文明の内なる衝突』(NHKブックス)でも言及されたように、浅田が言う《アガンベンは、ナチス絶滅収容所で衰弱しきった収容者、おそらくそのうずくまった姿勢ゆえにユダヤ人でありながら「モスレム」と呼ばれていた収容者に、二十世紀の人間の究極のパラダイムを見た》、は現実の場で益々侵攻の速度を速めているのではないか、ホモ・サケルは他人事ではない。
ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生開かれ―人間と動物中味のない人間アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人