田中エリス&森岡正博

《bk1レビュー》
 最狂のロリーター詩人『きゅるるん大革命』(マーブルトロン)という萌える現代詩なるものを手に取った。森岡正博氏は解説する。

若い女性詩人の詩と言えば、恋愛ものか、セックスものか、自傷ものか、癒しものか、夢見るポエムと相場が決まっている。あるいは、最近はやりの、「くじけずにがんばろうよ」という応援ソングが。しかし、田中エリスの詩に満ちあふれているものは、それらとはまったく無縁である。/彼女がこの詩集で表現しようとしているもの、それは「きゅるるん」である。この詩集の核心はここにある。では「きゅるるん」とはいったい何か。

 有名書店では本書は現代詩の棚になく、タレント本コーナーにありました。ぼくが棚担当者でも、同じ陳列をしたと思う。だが、エリスの詩は世界に攻撃を仕掛ける。あまりにもメッセージ性が強すぎる、巻頭から『世界同時きゅるるん革命』という表題で、電脳世代の不満分子たちに向かってアジテートする。

(略)同志諸君よ!たったいまからレジスタンに加担、感電、被爆せよ!/私は、すぐにでも小鳥について空前絶後の規模で連想を行い、/国際的に禁じられているという世界同時きゅるるん革命を、/震えやすいこの極東の地平から、/世紀の詩人となって、煽動することにしよう!

 本文と装丁、写真とのズレを意識して編集したのか、書店担当者が現代詩の棚でなく、タレント本コーナーにサシて欲しかったのは、エリス側の戦略だったのかもしれない。本書の裏表紙に仕掛けがあって『エリス新聞』になっている。99の質問群が掲載されて、エリスのプロフィールにアクセスするが、エリスの『天声鳥語』は、そもそも、理解を拒否する。『萌え』となった、エリスであれ、インコであれ、白いオウムであれ、「詩で武装」した言葉がリアリティと世界や他者に対して浸透力を持つには、「田中エリス」の写真がバリアになっている。まあ、それはオヤジになったぼくの特殊な事情かも知れない。エリスは「相対化しつつ、当事者でもあり得る、舌っ足らずな方法を教えて下さい」って言う。「相対化しつつ当事者であり続ける」はぼくの信条だ。ただ、なぜ、それが、舌ったらずな方法かが、理解出来ない。東浩紀にしろ、大塚英志にしろ、キャラ立ち、萌えを世界解釈の重要なタームとして色々と啓蒙してくれるが、キャラにしろ、ネットアイドルにしろ、そのシステム、理論は面白いけれど、やっぱし、生身のリアルなものしかシンクロしないオヤジにとって、例外として、ヘンリーダーガーの『非現実の王国』の少女たちは圧倒的なリアリティがある。「きゅるるん大革命」は参考として、深町真理子訳『アンネの日記』、広河隆一パレスチナ』をあげているが、ヘンリーダーガーの少女たちを仲間に入れて欲しかった。それで、追記参照として、ヘンリダーガーを取り上げました。画像は榎本香菜子のインコです。ぼくなら、本書の詩にかような画像をつけてみたいと思ったのです。そのことが、又、本書に対するぼくの批評になるはずです。それで、本書の画像はつけないことにしました悪しからず。御覧になりたい方は 『不思議な国のエリス』をクリックして下さい。
参照:《収録作品全点見れるプレビュー》 斉藤環『戦闘美少女の精神分析』という文脈で、ヘンリー・ダーガーは語られるみたいですが、そんな精神分析医や「おたく」、「萌え」、「キャラ」とか、かようなトッピングのテクニカル・タームでヘンリー・ダーガーの作品を鑑賞すると、この素晴らしさを味合うことが難しい。『ヘンリー・ダーガー非現実の王国』。実際のダーガーは「不遇のアーティスト」っていう意識は全くなく、清掃の仕事を終えて、毎夜、自分で詳細に織り成す「歓びの王国」の制作に勤しんだというだけであろう。公表するなんても、考えてもおらず、こんな風にして、偶然が重なり、この国で自分の「王国」が鑑賞され、玄関に飾られて、働く女の人たちを勇気付ける。そんな僥倖を想像すらしなかったであろう。もし、この世にアナーキーな王国が存在し得るとしたら、ヘンリー・ダーガーの王国こそ、それに相応しい。そんな王国を持っている人が市井に隠れおおせているのではないか?公表されることを望んでいないにもかかわらず、ただ、ただ、描き、書く人が…。ヘンリー・ダーガーこそがイコンとしてのインコなのです。エリスの言葉、写真はオヤジに届かなかった、だが、ダーガーは圧倒的な説得力を持って、きゅるるんと、鳴く。♪ “イコンインコの宣言文”
 耳の彫刻家三木富雄は、聴くことに徹した。法螺貝を耳に当て世界の音だけを聴いてみたい。そうすれば、アメフラシウミウシが喋り出す。そして、ぼくは蝸牛となって別れ道を行く。大地を這い回る。地動説の快楽に身を任す。だって、宇宙船に乗りたいから、蝸牛だって飛ぶことが出来る。そして、静に消えることが出来る。